◎第2回 Steven Spielberg の宇宙戦争

映画の無料鑑賞券を貰った友達といっしょに、名古屋駅前のピカデリーに行った。友達はアイランドが見たかったが、そちらは次の回まで1時間以上待たなければならなかったので、10分ほどで始まる、スピルバーグの宇宙戦争を観ることにした。

 私は、夕な夕な窓に立ち、椿事を待った。
 凶変の獰悪な砂塵が、夜の虹のように、
 町並みの向こうから、押し寄せて来るのを、待った。

という、三島由紀夫が15歳の時に書いた詩に、15歳のぼくはシンパシーを感じていた。ぼくはいじけて不安定な思春期の日々を送っていたから、いつも学校も何もかもが無くなってしまうような、天と地がひっくり返ってしまうような異変が、起こるといいなあ、と夢想していた(その頃からクラゲのように受動的で、自分からは何かを変革しようとはせず、何かを待っている人間だったんだね)。とは言っても、とても臆病で、いつも怪獣が出てきてはすべてを破壊しようとする円谷英二の特撮が好きだったけど、『宇宙怪獣ドゴラ』 や ウルトラ Q の『バルンガ』を見てからは、夜空を眺めては、雲の形の不気味さに怖れおののいていたのだった。他の怪獣なら、ペットの爬虫類が原型であるような、人間にとってまだしも解りやすい脊椎動物の形態をしていたのに、ドゴラやバルンガは、もっと異質の存在で、いわば天変地異のカタストロフィーそのものであるような、怪獣だった。そしてスピルバーグの『宇宙戦争』もまた、そんな空の異変から始まる。カタストロフィーの予兆は、先ず空から始まるものなのだろう。

主人公レイ・フェリエ(トム・クルーズ)は、アメリカの普通の市民。ブルーワーカーで、離婚した奥さんとは、取りあえずさばさばした友好関係を保っているようで、2人の子供も自分が引き取って、俺は一家の父親で家庭もちゃんとやっているぞ、と思いたいけど、実際には破綻していて、すでに子供にだいぶしわ寄せが来ていて負担をかけている様が描かれている。趣味の車(初代マスタング)に夢中で、子育てにそれほど気を配っているようには見受けられない。とくに食事がひどい(でも、これがアメリカの食生活の一つの現実だろうか。ときには、ベトナム、アフガニスタン、イラクの方が、人間にふさわしい食事をしているのかもしれない)。まだ10代初めの下の女の子はともかく、上の青年になりかかっている男の子は、父親に批判的だ。

そんな父と子供2人の家族が、エイリアンの地球侵略というカタストロフィーにみまわれて、父は父として家族を守る為に行動し、家族の絆を再発見し、息子は一人前の男として、家庭から独立して宇宙人に戦いを挑もうとして、父のぎりぎりのシチュエーションでの制止も振り切って、軍隊に合流しようとする。そんな家庭ドラマが、3人が住んでいたニュージャージーから離婚した奥さんの住むボストンまでの、エイリアンと戦いながらの逃避行として描かれる。アメリカの小家庭の再生に、アメリカの再生が託されているかのようだ。

さて、ハリケーンのような突風とともに稲妻が次々に地表に堕ち、やがて地面の亀裂がめりめりと広がって、地底からエイリアンが仕組んだ巨大な殺人マシーンが現れる。そして、逃げまどう人間たちを、殺戮していく。アメリカだけでなく、世界各地で同時に起きた宇宙からの侵略である。しかし、まだエイリアンが侵攻していない地域もあり、主人公たちはともかくまだしも安全そうで、しかも元妻のいるボストンをめざす。そんなフェリエ一家の視点で、物語は進んで行く。物語の中の時間設定は、まさしく今、2005年現在ということらしい。それなのに世界中の戦場で活躍中の、アメリカのハイテク兵器がいっこうに登場しないのは何故なのか? どうもゴジラに対するかっての日本の自衛隊並みの旧式な兵器しか使ってないようだ。エイリアンたちが電気やコンピューターを使えなくしてしまったからということらしいが、それでも自家発電や、侵略されてない地域では使えるようなのに。この辺りが映画のご都合主義というものか? ともかくエイリアンの圧倒的に強力な殺人マシーンの前に、人間たちはなす術もなく、ただ殺されるのを待つしかない。それは、なんという恐怖だろう。

しかし、エイリアンたちがやっていることは、アメリカ軍が、アフガンやイラクでやってきたことと、ほとんど同じじゃないか、と、思わずにはいられなかった。 アフガンでは、洞窟に潜むタリバンたちを殲滅させる為に、洞窟の奥深くまでレーダーで探知して、潜って行くミサイルも投入されているそうだ。この兵器で、タリバンたちは丸焼きになってしまうが、アメリカ軍兵士にとっては、コンピューターに打ち込むだけなので、バーチャルなコンピューターゲームと何の変わりもないのだろう。ひょっとしたら、兵士には相手を殺すという感覚も希薄になっていて、とてもオートマチックに機械が殺人を代行してしまっているのだろう。しかし、殺される側にとっては、これほどの恐怖はない。何しろ機械だから、コミュニケーションは不可能で、無辜の市民であろうが、問答無用で無差別殺人をしてしまう。ぼくには、この映画の中で、恐怖におののき、逃げまどい、虫けらのように殺戮されていくアメリカ人と、この今も殺されかかっているアフガンやイラクの人々とを置き換えてみないわけにはいかなかったのである。その意味で、この映画は2005年の現実そのものである。

現に逃げまどう人々たちが我勝ちに避難の道具たるバスやクルマを奪い合ったり、そのためにパニックに落ちいったりする、この映画の中の光景が、カトリーナに襲われたニューオリンズで再現されたことを、僕たちは知っている。

また、宇宙戦争のあっけない幕切れだって、映画の批評家や観客からは評判が悪いらしいが、エイズ、BHS、新型ウィルスと次々と新しい病気が出現し、細菌兵器や生物兵器の危険性も高い2005年の現実の中では、ウィルスに冒されて死んでいくエイリアンを、人類におき換えて、見てしまわざるをえない。

映画を見終わって、駐車場から出ると、名古屋駅東のロータリーの前に出た。目の前にそびえる建設中のTビルのシルエットが、エイリアンの殺戮マシーンのように見えて、臆病な僕はまたしても恐怖を感じたのだった。