◎第4回 フランケンシュタインの花嫁

I メアリ・シェリーの小説とジェームズ・ホエールの映画について

アイランドやブレードランナーにおける人工生命のテーマの原型は、フランケンシュタインにある。

メアリ・シェリーによって1816年に構想・執筆が始まり、1818年に匿名で出版されたフランケンシュタインの物語が、最初に映画化されたのはトーマス・エジソンの映画会社による1910年のことで、それ以来、吸血鬼映画と同じように、何十本ものフランケンシュタイン映画がつくられてきた。近年でもフランシス・フォード・コッポラ制作の『メアリ・シェリーのフランケンシュタイン』(1994)が公開されている。

けれども、映画におけるフランケンシュタインの傑作・代表作は、あのボリス・カーロフが主演したジェームズ・ホエール監督の『フランケンシュタイン』(1931)である。この作品によって、フランケンシュタインが創った怪物(以下、創造物=Creatureと呼ぶ)のイメージが決定されてしまったのである。

すぐに、ハリウッドでは続編の制作が求められたが、ジェームズ・ホエールは肯んぜず、H・G・ウェルズ原作の『透明人間』(1933)のような新しい作品に挑戦したりしていたのだが、とうとうフランケンシュタインの続編を撮ることになった。すでに『フランケンシュタイン』と『透明人間』が興行的にも大成功をしていたので、ジェームズ・ホエール監督は、比較的自由に続編を撮影することができたようだ。


そんな訳で、前作を上回る完成度の『フランケンシュタインの花嫁』(1935)が完成した。
前作でもフランケンシュタインの創造物のイノサンスが、湖のほとりで少女と花遊びをするシーンに暗示されているが、続編では、一層そのイノサンスが強調されて、その面では、メアリ・シェリーの原作を良く表現している。創造物は創造者の身勝手の犠牲者なのだ。原作でも、それまで生命の再生の研究に没頭していたフランケンシュタインが、ひとたび創造物に生命が宿ると、途端に、何故か、忌み嫌い、それどころか憎しみまで抱くのだが、創造者に打ち捨てられた創造物は、もともとは邪な心もなく、何もわからないままに村に出て、その魁偉な容貌ゆえに人々から迫害を受けるのだ。本来ならば、生みの親たるフランケンシュタインが慈しみ、育て、教育すべきものなのに、彼は、それを放棄して、それ故に様々な悲劇を引き起こすことになる。

アイランドのクローン人間や、ブレードランナーのレプリカントのように、フランケンシュタインの創造物もまた、人間扱いされず、その生命はないがしろにされて、いささかも愛されない。

もっとも、人間は、人間をも人間扱いしなかったり、虫けらのように殺したりする。何も海の彼方の戦争ばかりか、アパートの隣室で、子供たちが、親や義理の親たちに虐待されて殺されている。

ところで、メアリ・シェリーの生涯も、血に染められた生涯だ。
1797年、彼女の誕生と引き換えに、母親は産褥熱で亡くなった。16歳で既婚者の詩人シェリーと駆け落ちをするが、ふたりの最初の子供はすぐ死亡。フランケンシュタインの物語を構想した1816年には、異父姉のファニーが自殺。シェリーのもともとの妻ハリエットも自殺。そして、メアリの2番目の子供も、3番目の子供も、イタリア彷徨のさなか、1818年から1819年にかけて相次いで亡くしている。
1822年には、夫のシェリーが無謀な海難事故で死んだ。
1824年には、シェリー夫妻と因縁深いバイロンもギリシアで客死した。(余談になるが、ジェームズ・ホエールも1957年に自殺した。)

今日、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』は、彼女のこのような生涯と結びつけられて、語られることも多い。
たとえば、ケン・ラッセル監督は『ゴシック』で、1816年にスイス・ジュネーヴのレマン湖畔のバイロンが滞在中のディオダティ荘を舞台に、嵐の一夜の妄執と狂気と恐怖と死と血を描いた。実際、1831年の『フランケンシュタイン』第3版に始めて付けられた前書きのなかで、メアリ・シェリーは、この湖畔での日々に、物語を着想したことを報告しているが、それにしてもケン・ラッセルの表現は、いささか大げさな気がしないでもない。それでも、彼女が前書きでは、意識的にも無意識にも隠さないではいられなかったある部分には、到達しているのだろう。
また、物語の構造が、子宮のように入れ子構造になっていることや、フランケンシュタインが、現実の性交を忌避しているとか、ホモセクシュアルであるとか、という指摘もあって、そういった観点から、愛や性交をともなわない出産、体外受精の先駆的作品とも看做されている。



II フェミニズムの先駆者メアリ・ウルストンクラフトとアナキズムの始祖
ウィリアム・ゴドウィンについて


メアリ・シェリーの母親、メアリ・ウルストンクラフト(1759〜1797)は、その時代の水準を遥かに超えたラジカルな思想家であった。啓蒙主義の洗礼を受けた彼女の直感力は、さらに根源的な思索へ向かい、誰よりも冷静に、熱烈に、フランス革命に共感し、擁護し、すべての人間が平等で自由であることを謳った。
彼女の前では、ルソーでさえも、こと男女平等という点での尻込みが、明らかにされてしまう。
少女の頃より、専横な父親の犠牲者である母親や妹たちを助け、長じては学校経営を通じて、女子の教育に携わり、女性の地位が男性と同じであることが、自明の理であることを表明してきた。
今日でこそ、彼女は、フェミニズムの先駆者としても、思想史上、評価されているが、彼女の生きた時代に於いては、なんと大胆な思想の表明と実践であったことか!

  彼女は、自分の人生を生きた。人間は誰しもが幸福になる権利を持っていることを確信していた彼女は、恋に生きる情熱的な女性でもあった。
彼女はロマン派の画家へ恋をしたが、彼は既婚者だった。制度としての結婚を唾棄し、自由な恋愛に至上の価値を於く彼女だったが、彼への恋心は胸の内にしまい込んだ。

 その直後の1793年に,メアリがフランスに渡ったのは、フランス革命の実相を目の当たりにしたいという目的だけでなく,彼のそばを離れて,彼への気持ちを忘却させる手段でもあったのだろう。彼女は,聡明な人であったけれども,その瑞々しい感受性を閉じ込めることが難しい,情熱の人でもあったのだから。
しかし,彼女はパリで,新しい恋に墜ちたのだった。それは,啓蒙思想をバック・ボーンとするアメリカの独立戦争を戦ってきたというアメリカ人ギルバート・イムレイへの恋だった。理想を夢見る2人のロマンチックな恋は,一瞬にして燃え上がった。
けれども,やがて彼は別の女性へ心変わりしてしまったのだが、メアリはそれでも彼と別れる気持ちにはなれず、結婚制度を否定し,自由恋愛を唱える彼女らしく、3人での共同生活を提案した。だが、そこにも絶望をしか見出せなかった彼女は、自殺を図った。それは未遂に終わったが、彼女はロンドンに戻ると、今度はテームズ川に身を投げた。

 1795年10月の冷たい雨の降りしきる暗い夜だったが、幸運なことに、彼女は救出されたのである。
しばらく悄然としていたメアリは、アメリカ人との間に生まれた娘ファニーのためにも、生きよう、と思いなおし、やがて思想家・著述家としての活動を再開した。
そんな頃であった、ウィリアム・ゴドウィンと知り合ったのは。ウィリアム・ゴドウィン(1756〜1836)の著作『政治的正義に関する考察』(1783)ほど、理想に燃えるイギリスの政治的急進主義者たちに影響力を及ぼした思想書はない。彼が唱えた政府のない社会、富の公平な分配という思想から、今日、ゴドウィンは、アナーキズムの始祖と看做されている。
メアリとウィリアム・ゴドウィンは、お互いの思想を尊敬しあい、ふたりの間には、徐々に静かな愛が育まれるようになる。彼らは、教会や社会制度の干渉による自由への侵害を憎んでいたし、男と女は平等で自立したものであると主張していたので、あえて結婚はしないで、お互いに別々の住まいを近くに持った。ふたりは、毎日のように会い、語り合い、手紙を書きあった。それは、ふたりの人生に於ける最も幸福な時期であったに違いない。
ふたりの結びつきからは150年後の J・P・サルトルと S ・ボーヴォワールの関係を連想される人も多いであろう。やがてメアリは身ごもり、1797年、ふたりは婚姻制度を否定する哲学よりも、ただ生まれて来る子供の現社会情勢下での幸福を祈って、私生児として肩身の狭い思いをさせないために入籍した。しかし、先に述べたように、娘のメアリの誕生と引き換えに、母たるメアリは死んだのだった。なんという悲劇!これが、娘メアリの人生の始まりだとは!


III メアリ・シェリーの生涯について

ウィリアム・ゴドウィンには2人の娘が残された。連れ子のファニーと、メアリと。彼は、今度は、娘たちを育てるための女手を必要として、その為に再婚した。そんな理由で結婚することこそゴドウィンやメアリ・ウルストンクラフトの思想を裏切ることだったが、ゴドウィンは高邁な思想より、目前の生活を優先せざるを得なかった…。その相手、ジェーン・クレアモント夫人にも2人の子供があった。息子のチャールズと娘のジェーンだった。
メアリは、父親には尊敬の念を持っていたけれども、継母には馴染めなかったようだ。そのことを感情表現に出すことはなかったが、何故か、家庭の中では右手の自由が利かなくなるのだった。それは家庭を離れると良くなり、またロンドンに戻ると再発する原因不明の病気だったので、メアリは、スコットランドの知人の家に預けられることとなった。100年後にはフロイトが心因性のヒステリーと名付けることになる症例であったのだろう。

後にメアリと結婚することになる裕福な貴族の子、パーシー・ビッシュ・シェリー(1792〜1822)は、何不自由なく育った者特有の全能感を持っていたことだろう。彼はさらに啓蒙思想の息吹を浴びて、怖い者知らずの理想主義者となり、夢の中で夢を夢見るロマン派の詩人となった。
ウィリアム・ゴドウィンらの影響も強くあり、オックスフォード在学中に、『無神論の必然』を書いて、大学を放校されてしまう。その頃しばしば、妹たちが学んでいた女学校を訪れることがあった。若者らしい傍若無人の英雄的振る舞いをする美貌の青年は、たちまち女生徒たちの憧れの的となった。中でも可愛らしいハリエットはシェリーの関心と同情を買うことに成功して、ふたりは駆け落ちをする。それはシェリーにとっては父親の横暴を訴えるハリエットを救済するための手段だった。時に1811年、シェリーは19歳、ハリエットは16歳であった。パーシーの実直な父親は怒り、息子への仕送りをストップするが、パーシーは子供の頃から身に付いた我が侭を発揮して、今しも家庭内で暴力を振るわんばかりにかんしゃくを爆発させて、父親を非難しつつ、金を無心する。保守的で温厚なパーシーの両親は、息子の振る舞いが理解できずにおろおろするばかり。一方、理想に燃える彼は、自分のためばかりではなく、貧窮する革命家たちへも鷹揚にお金を渡していた。やがて、パーシーは、尊敬するウィリアム・ゴドウィン家に足繁く通うようになる。

メアリとパーシーが、最初に出会ったのは、1812年のことだった。
彼女が、あの偉大なメアリ・ウルストンクラフトとウィリアム・ゴドウィンの娘なのか…。と、パーシー・シェリーは感嘆した。メアリも夢を共有できそうなこの美青年に、すぐ恋心が芽生えた。かって若いメアリが唯一自分の秘密の逃避場所としていたのは、母親のお墓の前であった。そこで彼女は物思いに耽り、母の書いた本を読み耽っていた。今やそこがふたりの逢い引きの場所となった。

実はメアリの異父姉フェアリーもパーシーに恋をしていたが、ゴドウィン家ではいつも自己犠牲的に控えめに振る舞わざるを得なかった彼女は、ついにその思いを誰にも明かすことができなかった…。

パーシーは、自由な恋愛を表明していたので、新妻ハリエットへも、メアリの素晴らしさを話し、メアリに恋をしていることを隠さなかった。それが誠実な態度だと信じていた。ハリエットは、パーシーの娘を生んだばかりだったが、この父親は、いっこうに妻や子供に興味を持たず、ハリエットたちをバースに置いたまま、自分はロンドンでゴドウィン家に入り浸っているのだった。

自由を愛し、結婚制度を否定するウィリアム・ゴドウィンなら、自分たちの道ならぬ恋も、祝福してくれるにちがいない、とパーシーも、メアリも思っていた。けれども、2人の告白を聞いて、ゴドウィンは、世間一般の父親と同じように怒るのだった。それは、ふたりにとっては思いがけないことであった。とりわけメアリには、父親であり、またそれ以上に、自由思想家として尊敬していたゴドウィンに裏切られた気持ちがした。後世の批評家たちは、小説『フランケンシュタイン』のヴィクター・フランケンシュタインや、最初に殺されるウィリアム坊やには、ウィリアム・ゴドウィンその人が投影されていると解読する。

1814年7月。夏の早朝。パーシー・シェリーは、メアリと駆け落ちをする。何故か、異母妹のジェーンも同行して、3人はドーヴァー海峡を渡り、対岸のフランスのカレーからパリを経由して、スイスのアルプス(ロマン派の魂の故郷のひとつだろう)に向かった。

ナポレオン失脚後の戦禍の後が残る荒廃したヨーロッパの旅は、散々な旅だったかもしれない。
パーシーは22歳、メアリは16歳、ジェーンはさらに年下で、よるべない子供たちの無謀な旅でもあった。身の危険を感じたことも再三あった。それでも、3人は、アルプスに登り、その崇高さに感動を覚えた…。
愛と自由への希望に満ちた旅でもあったが、お金もないし、稼ぐ術も知らない彼らは、やがて途方に暮れて、帰路に就かざるをえなかった。ライン川を船で下るのが一番お金の掛からない方法で、パーシー・シェリーは泳げないのに、何故か『水』に惹かれているようだった。バーゼル、ストラスブール、オランダを経て、ロンドンに戻った。それは6週間の旅であったが、大変な冒険でもあった。

ロンドンでも、彼らの旅は続いた。まとまったお金もなく、あちこちを転々とせざるを得なかったのだ。シェリーは、借金に追われ、債権者から身を隠す必要もあった。彼はいつかはシェリー家の財産を相続するであろうという気持ちがあったがゆえに、金銭の使い方に無頓着であったのだろうか? いや、それは私有財産への反感ゆえのことではなかったか? だから、自分が金銭的に困窮している時でさえ、まわりにお金に困っている人がいれば、惜しみなくお金を分け与えたし、そのために借金することにためらいはなかった。

ゴドウィンは、パーシー・シェリーとメアリの関係を許すことはできなかった。そこには結婚制度を否定し、自由恋愛を支持したあの思想家の相貌ではなく、世間を気にして、家族も守らなければならない家父長の顔があった。折しも時代は反動期で、ゴドウィンの思想に対しても、社会の秩序を乱す物として国家権力は介入の手を伸ばそうとしていたので、その理由からもゴドウィンは社会の反応を警戒し、けじめとして、メアリに家の敷居を跨ぐことは許さなかったけど、ジェーンの兄のチャールズ・クレアモントや、異父姉のフェアリーが、時折ゴドウィン家の要件を託されて、3人の仮住まいを訪れるのだった。

フェアリーの立場は微妙だった。
メアリ・ウルストンクラフトの娘ではあったけれども、ウィリアム・ゴドウィンは、本当の父ではない。実の父は母を棄てて自殺未遂の原因となったアメリカ人だ。現在の母、ジェーン・クレアモントとも血の繋がりはない。それなのに、自分だけ置き去りにされて、ゴドウィンの実の娘のメアリも、クレアモントの実の娘のジェーンも、ゴドウィン家を棄てて、勝手気侭な生活を楽しんでいる。まして、彼女たちが一緒に愛に充ちた暮らしをしている相手は、そもそもフェアリーだって懸想していたあのパーシー・シェリーだ。何故、フェアリーだけが、ゴドウィン家に残されて、義理の父母に気兼ねしながら、仕えなければならないのか?
愛と自由の理想は尊いけど、メアリやジェーンのように身勝手な人たちにはそれが得られて、真面目に義理の家族に尽くしているフェアリーは、誰からも愛されず、女中のように抑圧された暮らしを強いられなければならないのか?
フェアリーは、きっと自分の境遇を悲嘆していたに違いあるまい。

そうした境遇は、パーシー・シェリーの妻たるハリエットだって、似たようなものだった。せっかく、美貌の貴族の跡継ぎと結婚したというのに、パーシーは、臆面もなく、ハリエットより、メアリを愛しているという。そのくせ身体だけは求め、もうすぐ、2番目の子供さえ生まれる予定なのに、子供の養育のことを考えてくれるどころか、ハリエットからも、メアリとジェーンとの気ままなボヘミアン生活を送るために、お金を持って行ってしまう。ハリエットは、自分の往く末を案じて、不安で一杯だっただろう。

1814年12月、ハリエットと、パーシー・シェリーとの第2子にして、長男のチャールズが生まれた。
その頃には、メアリもパーシー・シェリーの子供を、身籠っていたのだが…。
パーシー・シェリーは、嫡男の誕生にはそれはそれで喜び、友人たちに誕生通知を送る一方、しかし不安に苛まれてもいた。そう、パーシーこそは、永遠の少年。決して、父親になれない男だった。赤ん坊の存在が、彼を脅かすのだった。

その頃、ジェーンは、度々夢遊病の発作にみまわれた。それが収まると、急に自分の名前を改名した。新しい名前はクレアだった。まことに19世紀人は、フロイト先生の公式にのっとった行為をしてくれる。こうして、メアリとパーシー・シェリーに支配された少女ジェーンは、生まれ変わり、クレアとして、大人の女への道を歩むようになる。

1815年2月、17歳のメアリは、パーシー・シェリーの娘を生む。
未熟児で、生後11日目に死んだ…。それからしばらくの間、メアリは幾夜も死んだ子の夢を見続けた。

クレア、メアリ、パーシー・シェリーの3人の生活は、それぞれが精神的にますます不安定になり、おたがいの緊張感が増してきた。やがて、クレアが家を出ることになった。

メアリとしては、パーシー・シェリーとふたりきりになって、ようやく安らぎの見出せる日々を得たようだ。本当はやはりメアリはシェリーの愛を独占したかった。その頃シェリーの祖父が亡くなり、彼は遺産として年金の形で収入が得られるようになった。メアリは、また妊娠して、1816年に息子のウィリアムを生んだ。

クレア(元ジェーン)はクレアで、ロンドンの社交界のスキャンダルの中心にいたバイロン卿に、自ら奸知を巡らして、近づいていた。バイロンのスキャンダルとは、同性愛の噂やら、腹違いの姉オーガスタとの禁じられた恋愛で、子供も生まれていた。夫人のアナベラからは離婚を迫られ、彼は、祖国を棄てて、スイスに向かおうとしていた。クレアにとって、バイロンを誘惑するのは簡単だった。まだ18歳だったけれども、これまでに十二分に恋の勉強をしてきたのだから…。もっとも、バイロンにとっては気紛れな火遊び、小娘に誘惑されるのを拒むような無粋な振る舞いをしなかっただけのことだ。クレアはすぐに、バイロンの子供を身籠った。

ジョージ・ゴードン・バイロン(1788〜1824)の父親ジョン・バイロンは、持参金目あてで、名門貴族ゴードン家の末裔の娘と結婚した荒んだ男だった。放蕩の限りを尽くし、博打の借金から逃れ、流浪の果てに、バイロン3歳の時に異国の地で野たれ死んだ。母親キャサリンは、財産をすべて遣い果たした夫に棄てられてからは一族の故郷であるスコットランド北部に引き蘢り、幼きバイロンは、一族の呪われた血をひいて癇が強く情緒不安定な母親との、貧しく惨めな日々を送っていた。しかし、1798年に父方の大叔父バイロン5世男爵(悪辣な殿、と渾名された殺人までおかした粗暴な人物)が死ぬと、爵位と財産を受け継いで第6代バイロン卿となり、ようやく貴族らしい暮らしが始まった。1805年にはケンブリッジに入学するも、先祖から引き継いだ古い憎院に隠って、放埒な気晴らしに、昼も夜も費やしていた。賭け事、射撃、酒宴(バイロンは、髑髏盃を使っていたと謂う)、乱交…。それは、ほぼ同時代に生きたサド侯爵(1740〜1814)やウィリアム・ベックフォード(1760〜1844)が彼らの城館で催した饗宴を彷佛とさせるような日々と夜々であったかもしれない。しかし、そこに彼の心を充たすものは、何も無かった。バイロンは、やむにやまれぬ気持ちで、旅に出る。ポルトガル、スペイン、ギリシア、トルコ、地中海の旅が、バイロンに啓示を与えた。帰国後の1812年に刊行された『チャイルド・ハロルドの遍歴』で、バイロンは一夜明けると、一躍時の人になっていた。その異国憧憬、その過去追慕、その悲哀、その情熱的な恋と離別…。そのロマンティックな詩の主人公と作者バイロンは、ともすれば同一視され、バイロンは望まずしてヒーローになった。日増しにバイロンの名声は高まり、やがて彼は上院議員となった。彼の政治活動で特筆すべきは、ラッダイド運動を擁護する演説を行なったことである。

ラッダイド運動とは、産業革命によって、切り捨てられて職を失わざるをえなかった職人がおこした機械破壊の行動である。産業革命に対する誇り高いテロリズムである。歴史上最初の労働運動でもある。そしてラッダイド運動を鎮圧するために、イギリス政府は機械の破壊者を死刑にする法律を制定して、実行された。代々その仕事に就くのが宿命であり、子供の頃よりその仕事のみを教え込まれてきて、その仕事に誇りを持つ、実直な職人たちが、機を見るのに敏な資本家の財産が守られるために、死刑になったのだ。

傲岸で神秘的で、どこか達観したところのある詩人バイロンは社交界の寵児となり、言い寄ってくる女たちと様々な火遊びや恋愛沙汰を経験したが、もとより彼の思い、振る舞いは、世間の道徳の範疇に収まるものではなかった。とりわけ愛の恵み薄い不幸な子供であった彼のあらかじめ傷ついた心を唯一慰めてくれた、4歳年上の異母姉オーガスタへの思慕は、やがて絶望的な恋愛へ墜ちて行く…。バイロンにとって、オーガスタこそは、どんなに(心の)闇が暗くなろうとも、夜空に最後まで消えぬ、ただ一つの星であった。しかし、世間にとっては、道ならぬ恋であり、日増しにバイロンへの非難の声は高まっていく(マリオ・プラーツは、アナベラへの当てつけで、オーガスタへの愛を演出した、と言う)。
そのさなかでも、ひとりオーガスタのみは、世間の非難に、たじろぎもせず、バイロンの悲しみを分け合ってくれた。
バイロンは謳う、「私は世間を愛さなかった。世間も私を愛さなかった。群衆の中にありながら、その仲間扱いは受けず、彼らの中で、ただ一人だけ立ち、
他人と異なる思想を身に纏った。今もなお。」

かくして1816年春のバイロンは、不思議なことに1809年に謳った詩をなぞるようにして、イギリスを去り、その後永遠に戻ることは無かった。

すべて終わった。
疾風に震えながら、船は真っ白の幌をひろげる。
傾く帆柱の上に、高く鳴り響くのは、
吹きつのる嵐の、雄叫びの歌。
かくて私はこの国から去り行かねばならぬ。
ただひとりを恋する故に。

いまもなお、かっての私であったなら、
そして、昔のものが見えるのであったなら、
熱く燃える心の憧れを込めて讃えた、あの人の胸に、
いまもなお、寄り添うことができるのなら、
異国へ、旅立つことが、あり得ようか。
ただひとりを恋する故に。

あの瞳を見なくなって、時は流れた。
私に、歓びと嘆きとを与えた、あの瞳。
再び、そのことは思わない、と、誓ったのも、
虚しい。
このアルビオンの島から去ろうとも、
私が恋するのは、ただひとり故に。

( Stanzas to a Lady, on leaving England. 1809)


1816年の夏は奇妙な夏だった。天候不順で、よく雨が降り、雷が轟いた。そこ、ジュネーヴはレマン湖のほとり、ディオダティ荘に滞在していたのは、バイロンと彼の主治医のポリドリだけではなかった。バイロンを追ってやって来たクレア(何しろ、お腹にはバイロンの子を宿しているのだ)と、今回はむしろ彼女に引き連れられて来た(いや、それも口実のひとつだった)メアリとパーシー・シェリーがいた。そこでのひと夏の日々を濃縮して、一晩のうちに起った事として、ケン・ラッセルは映画『ゴシック』を撮ったのだった。また、『フランケンシュタインの花嫁』の冒頭のシーンも、ここでの嵐の夜、まだ18歳のメアリの語るフランケンシュタインの物語を、バイロン卿とシェリーがメアリに寄り添って聞く場面から始まる。そう、その夏そこで、メアリの脳裏にフランケンシュタインの物語は、胚胎したのだった。バイロン卿が朗読する超自然の怪談。死んだ肉体を動かすガラヴァーニの実験についてのシェリーとバイロンの会話。シェリーの幻覚を伴う精神錯乱の発作。そういった事どもがきっかけになって、彼らは銘々が、怪談を書いてみようと提案したのだった。そして、メアリの脳裏に天啓のように浮かんだヴィジョンが『フランケンシュタイン』となったのだった。



バイロンとシェリーは初対面だったが、シェリーはバイロンに率直な敬愛の念を抱いていたし、世間に倦み、人嫌いのバイロンにとっても、シェリーは、幾分、自分に近い人種であるように思われていたことだろう。ともあれ、バイロンはすでに、文学上の成功を収め、社交界で浮き名を流し、英雄として祭り上げられたあげくに、今度はその座から引きずり降ろされて、世間から敵視され非難されるという、有為転変を経験してきたし、もともと生まれた時から不幸と孤独が友達のような人生でもあった。そして、沢山の恋と、様々な女性遍歴をしてきたけれども、最も純粋な恋が、禁断の恋であるという悲恋の主人公でもあった。それ故にか、彼はむしろ進んで、世間に対して挑発的に、悪魔的なバイロンというポーズをとるときもあった。つまり、愚かな世間に対して弁明するよりも、嘲笑することを選んだ訳だ。それは、ボードレールのいうダンディズムと同質のものだろう。しかし、シェリーには、そんなポーズなどとる必要もなかった。シェリーはもっと無垢な存在で、自分の行為に疑念を感じたことさえ、無かっただろう。バイロンにとって、そんな赤児のようなシェリーは、時には愛すべき存在であったし、時には疎ましい存在であったことだろう。シェリーは、もっとバイロンの身近にいたくて、ディオダティ荘でともに寝起きができることを望んだけれども、バイロンはそれを断わった。ただ、クレアはときおりバイロンと同衾していたが…。あいかわらず、バイロンにとって、クレアは恋の対象にもならない、夜伽の相手でしかなかったのだけれど。

それにしても、この夏のレマン湖の畔で過ごした日々は、バイロンにとっても、シェリーにとっても、人生最後の夏休みだったのだ。また、メアリにとっては、バイロンとシェリーの議論に耳を傾けることがこの上も無い楽しみであった。そういえば幼き頃も、メアリはゴドウィン家の来客たち(詩人のコールリッジ、ラム兄弟ら)の議論によく耳を傾けていたものだった。

夏も終わる頃になって、パーシー、メアリ、クレアたち3人のボヘミアンは、イギリスに帰って来た。(バイロンはヴェニスに向かう準備を始めた。)
ロンドンではなく、保養地のバースを滞在の地に選んだのは、だんだんお腹の出て来たクレアを世間の目から隠すためでもあった。その地で、10月、3人は、メアリとクレアの異父姉ファニーの自殺を知る。バイロンのみならず、メアリやクレアやパーシー・シェリーも、今やスキャンダルの中心で、性の放縦が非難の的となっていた。そんな娘たちが育ったゴドウィン家の娘ファニーだって、まるで同罪のように世間では見られ、それ故、ファニーが望むような月並みな幸福さえ、得られそうになかった。あまつさえ、ファニーは、就こうとしていた教師の仕事も断わられてしまった。彼女は自分の人生が自分の望むようにはいかない事に絶望して、自殺した。その手には、ジュネーブで3人がファニーへのおみやげとして買ってきた時計が握られていたと謂う…。

夜のそよかぜよ、さらに優しい偲び音かすかに、
波の間に、ささやいてゆけ。
愛しいファニーの眼は、まどろみ、
その枕辺に、安らかな憩いよ、訪れよ。

あの唇と、青い瞳に、幸いよ、宿れ。
美しいファニーよ、清らかに眠れ。
唇は、嘆きに開かれることなく。
瞳は、涙に目覚めることなく。

( Song by Byron .1808 )

このバイロンの詩に謳われるファニーは、べつのファニーだ。バイロンは、ファニー・ウルストンクラフト・ゴドウィンのことは知らない。ところで、ウィリアム・ゴドウィンは、ファニーの自殺の隠蔽を謀った。メアリは2年前にやむをえない家出をしてから初めての手紙を父親から受け取ったが、それはファニーの自殺を決して誰にも口外するな、という内容だった。近隣の人々にはファニーは風邪で病死したことにした。かっては一緒に暮らしていた義理の兄のチャールズなど、翌年の夏まで、ファニーの死を知らなかった。ファニーの死は、その生と同じく、なんて孤独だったのだろう。可愛そうなファニー…。

12月にはシェリーの妻ハリエットが、ロンドンの池で入水自殺をした。
それから、わずか2週間の後に、メアリとパーシー・シェリーは結婚式をあげ、メアリはメアリ・シェリーとなったのである。メアリは19歳、パーシーは24歳だったが、もうずいぶん長い人生を送ってきたような気がした。果たして、それは念願の結婚式だったのだろうか。少なくとも、ゴドウィンは、これで娘もゴドウィン家も世間から非難を浴びる謂れもなくなり、肩身の狭い人生から抜け出せると、喜んだと思われる。

以上のような背景の中で、メアリはフランケンシュタインの物語を書き続けた。
1817年5月に脱稿。9月には3番目の子供となる娘のクララをメアリは産んだ。翌18年3月11日、フランケンシュタインは匿名で刊行される。

その同日、クレアとメアリとパーシー・シェリーの3人は、子供たちも連れて、3度目の ヨーロッパ旅行へと出発した。結局のところ彼らのイギリスでの生活も生き詰まり、彼らは生活を変えるために、そしてもっと生活のしやすそうな土地へ移ろうと思ったのだ。もっとも今度の滞在先は、またしてもバイロンがいるイタリアで、それは、5年以上もの滞在となった。しかし、その間に、メアリは連れて行った子供たちを相次いで病気で亡くしてしまうことになる。そして、クレアの娘も、また。

旅の目的の一つはクレアとバイロンとの間に生まれた娘アレグラを、バイロンに託すことだった。彼のもとでなら、貴族の令嬢としての教育を受けさせることができるだろう…。バイロンはシェリーに感化されていちづなクレアに会うことにはうんざりしていたので、アレグラだけが乳母とともにバイロンに預けられた。ところでバイロンは、新しい愛人テレーザ・グイチオリ伯爵夫人とのヴェネツィアでの甘い生活が始まっていたし、シェリーとの話し合いでアレグラをバイロンの娘として引き取り養育することになっていたけれど、自分の子ではなくシェリーの子では無いだろうかという疑念も払拭でき無かった。バイロンは子供の頃の愛読書を思い出した。それはジョン・ムアの『ゼルーコ』で、残忍で粗暴な主人公は、自分の子供が、妻が実の兄との近親相姦で出来た子供ではないかと疑い、怒りに任せて絞め殺してしまう。もともと、バイロンは、妻のアナベラに対しても、ふたりの間に生まれた子供に対しても冷淡だった。バイロンは、クレアもアレグラも疎ましく思い、自分からは遠ざけておきたかった。そこで、バイロンはヴェネツィアのイギリス領事ホップナー夫妻にアレグラを預けた。
 
1818年9月、先にエステでクレアと滞在中のシェリーに呼ばれて、メアリはまだ1歳のクララを連れて、バーニ・ディ・ルッカからエステに向かう。クララは旅の疲労で衰弱がひどくなっていたが、バイロンに早く会いたい一心のシェリーは、構わず出発するのだった。パドヴァに留まって安静にしているべきだったのだろう。クララの様態は悪化して、ヴェネツィアの宿で、クララは死んだ。翌日、クララはリド島に埋葬された。
 
1819年の冬の間、3人は、ナポリで過したが、沈鬱な気持ちは晴れなかった。春にはローマにきた。ローマは彼らを魅了した。シェリーは、メアリやクレアと、月明かりの下のファロ・ローマを長い散策をしながら、『チェンチ一族』の構想を練った。メアリはまた妊娠していた。しかし、次の不幸が彼らを襲う。6月になって2番目の子供だった息子のウィリアムズが熱を出して死んだのだ。

メアリは憔悴していた。しかし、妊娠中の子供のために、名医のいるフィレンツエに、3人は移った。11月に子供は生まれ、その男児は出生地にちなんでパーシー・フローレンスと名付けられた。それから3人は、居住の地をピサに移した。ピサは彼らにとって居心地の良い町となり、ようやく、落ち着きのある生活が得られたようだった。

ピサにはバイロンも来ていた。広大なランフランキ館に、愛人グイチオリ伯爵夫人と滞在していた。グイチオリ伯爵は、バイロンに、この美しい若妻を返して欲しいと懇願していたが、夫人の方は、バイロンの側を離れるつもりは無いようだった。ふたりは、昼間のうちは乗馬や射撃を楽しんでいたが、夜になるとバイロンは一人籠って、膨大な叙事詩『ドン・ジュアン』の執筆に打ち込むのだった。伯爵夫人は、その間、馬車に乗って、シェリーたちの小さなアパートを訪れることもあり、時にはパーシー・シェリーの詩の朗読に耳を傾けた。

バイロンは、クレアの娘アレグラを、ラヴェンナ近くの修道院に預けていた。クレアにとっては、不本意なことであり、もっと自由な環境で教育をして貰いたかったし、それにその古い修道院は湿地帯にあり、衛生状態に不安があった。暖房の設備さえなかった。クレアはどうかアレグラをちゃんとした家庭で育てて貰えるよう、何度も懇願したが、バイロンは聞く耳を持たなかった。そして、クレアの心配はやがて現実のものとなってしまうのだ。

1822年4月、アレグラはチフスで死んだ。5歳だった。誰からも愛情を懸けられることもなく、ろくに看病もされないままで…。これが狂った夏の予告編だった。

バイロンからその報告を聞いたシェリーは嘆き悲しんだ。クレアがそのことを知ったのは、しばらく後のことで、気も狂わんばかりの悲しみようだった。そしてシェリーは、引っ越せば苦渋から逃れ得るかのように、ピサを離れて、スペチア湾のレリチの海辺に家を借りた。ピサで知り合ったジェーンとエドワードも同居した。ジェーンはインドで陰湿な夫からの虐待に苛まられていたところを、東インド会社の将校だったエドワードに救われて、イタリアにやってきたのだった。シェリーには、どうも薄幸なヒロインに惹かれてしまう癖があった。だから、不幸な結婚生活から逃れてきたジェーンへの恋に墜ちてしまうのにも時間はかからなかった。

5月になってシェリーがジェノヴァで作らせていたヨットが到着した。バイロンの立派な帆船ボリヴァー号とは比ぶべくもなかったが、シェリーは大喜びだった。しかし、その船の名前が、シェリーにはもう気に食わないものになっていた。バイロンが名付けた「ドンジュアン」を、シェリーは「アリエル」に改名した。アレグロが死んだことについて、シェリーは、バイロンに憤りを感じていたのだ。ともあれ、これでシェリーは、海ともっと馴れ親しむ事が出来るように、海ともっと深い関係を持つ事が出来るようになった。午後の曳航。もともとシェリーにはどこかしら地から足が浮いているような趣があった。もともとシェリーにはどこかしら天使の風情があった。この夏、シェリーはようやく四大の元素のうちの地から離れて、海と風と光の完璧な三位一体に、自らも重ね合わせて、幸福な一体感を体験する事になるだろう。

シェリーは、泳ぐことができないのに、海に魅せられていた。そして、ジェーンにも。この頃のシェリーの詩のミューズは、ジェーンだ。しかし、シェリーはヨットにはもっと魅せられたようだ。シェリーの最後の詩は中絶したが、その原稿の裏は、ヨットの落書きで埋め尽くされていた。シェリーにとってヨットとは、彼方へと運んでくれる、機械仕掛けの神であった。

シェリーはエドワードや他の友人たちとヨットで沖に出ることも多かったが、また一人きりで海や野山を散策することも多かった。家には妊娠中のメアリがほとんどいつも一人きりで閉じ籠っていた。メアリは憂鬱だった。いまやシェリーの気持ちは、ジェーンの方へ傾いていることが彼女にははっきり判っていた。6月、彼女は流産した。
 
この頃、シェリーの幻覚はますます酷くなり、また、自殺を仄めかしたりしていたが、一方、外で会う彼は、健康的に日焼けして、快活で、優しかったと謂う。バイロンを仲間に入れて、『リベラル」という急進的な雑誌の創刊の準備も進めていた。

そして7月8日がやってきた。シェリーとエドワードは、怪しい空模様の中、リヴォルノからレリチに向けて、出帆する。やがて嵐が来て、すれ違った船の船長の静止の言葉もきかず、幌をいっぱいに張ったままのヨットで沖に向かって行った…。それは無謀な、自殺したがっているとしか思えないような行為だったのだが。当然のごとく彼らは遭難した。何日か後に、ヴィアレッジョ近くの海岸に彼らは遺体となって打ち上げられた。シェリーは、享年30歳だった。

メアリは茫然としていたが、また不思議な心の平安を得たことにも気がつくのだった。まだ25歳だったが、なんと波乱にとんだ人生を過してきたことだろう。それにしても何故、まわりの大切な人ばかりが、次々と死んでいったのだろうか。しかし、これで、ほとんど終わったようなもの。後は、ただひとり残った息子のパーシー・フローレンスだけは大事に育てよう、とメアリは思った。彼女のことを案じた友人たちは、彼女が寂しい思いをしないよう、そばにいるようにした。彼らはジェノヴァに大きな家を借りた。バイロンも近くに家を借りた。けれども、シェリーの不在は大きかった。誰もその空虚を埋めることは出来なかった。かって、シェリーが夢見た、思想家や詩人たちの愛の共同体は、シェリーがいてこそ成り立ったことに、いまさらのように、気がつくのだった。それで、みんな、ばらばらに分かれて、それぞれの道を歩み始めるしかなかった。

クレアは、バイロンがシェリーとは違う人種であり、彼からは永遠に愛が得られない事にやっと気が付いた。娘を亡くし、自分をも愛してくれたシェリーも亡くしてしまった。何もかも無くしてしまって、やっとクレアは目が覚めたようだった。思えば長い悪夢を見ていたものだ。今度こそクレアは全く別の人に生まれ変わったようだった。それからの彼女は一人きりで、しかし溌剌として自立した人生を歩んだ。イタリアを離れて、ウィーン、モスクワなどヨーロッパの各都市を渡り、家庭教師を立派に務めながら、結局誰とも結婚する事は無く、一生を全うした。

1823年8月、メアリ・シェリーは、イタリア滞在中に生まれた4人目の子供であり、生き残った唯一の子供であるパーシー・フローレンスを連れて、5年ぶりにロンドンに帰国した。これから彼女の2度目の人生が始まるのだ。彼女は、文筆活動によって、子供を養育した。「フランケンシュタイン」のあとも、イタリアでも作品を書き続けていたけど、今度は身過ぎ世過ぎのために、書くのだ。メアリは慎重に振る舞った。何しろ、パーシー・フローレンスの祖父ときたら、メアリが編纂するシェリー遺稿集に不穏な部分を発見するたびに、養育費の援助を打ち切ると言い出すのだから。あまりにも混乱して不安定な前半生を送ったメアリは、後半生では静かに着実に生きることに努めた。様々な雑誌に、沢山の評論、旅行記、評伝、小説、詩、翻訳を寄稿した。1831年に『フランケンシュタイン」の第3版が初めてメアリ・シェリーの著者名で出版された。メアリに求婚する者も現れたが、メアリはシェリーという美しい響きを棄てるつもりはありません、と言って、断わったと謂う。パーシー・フローレンスは、母の期待に答えて、名門ハロー校を経て1837年にはケンブリッジに入学した。1839年から翌40年にかけて、メアリ校訂、注釈によるシェリーの全作品が刊行された。そして、その年、彼女は息子とともに、久しぶりのヨーロッパ旅行を試みた。1844年、祖父のサー・ティモシーの逝去にともないパーシー・フローレンスがシェリー家の爵位と財産を継ぐ。1848年にはパーシーの結婚を見届けた。これで彼女が後半生で密かにやり遂げようと思っていたことは、すべて達成できた。1851年にメアリは永眠した。53歳の生涯は短すぎる生涯だったろうか。しかし、彼女にはもう、やらなければならない事は、何も残ってなかったのだ。むしろ斯くなる上は、シェリーや、若き無謀な日々の中で夭折させてしまった子供たちの元へ、早く逝きたいと、思ったのかもしれない。

バイロンは、戦場に赴いた。それは、シェリーが嵐の海に向かって出帆していったのに、呼応するような行為であった、と私は思う。そして、彼はオスマン・トルコからのギリシア独立戦争のために義勇軍を募り、率いた。しかし、1824年4月、ギリシアのミソロンギにて、彼は熱病で倒れた。36歳。彼は、「死ぬ事など何とも思わぬ。しかし、愛する者を残して逝くのは、なんという心残りか。」と、言った。バイロンの死は、ギリシアの独立戦争を支援する陣営によって、政治的に利用された。
 


IV フランケンシュタインの子供たち

私が最初に観た『フランケンシュタイン』の映画は、東宝の円谷作品だった、と思う。とても怖かった記憶だけが残っている。TVでも何か観たかもしれないが、覚えてない。アンディ・ウオーホル+ポール・モリセイの『FLESH FOR FRANKENSTEN』『DRACULA』は、十代の私の愛好する映画だった。この2作品やO嬢の物語でも主演したウド・キアや、『コレクター』のテレンス・スタンプ、『M.A.S.H』『1900年』『カサノヴァ』のドナルド・サザーランドのようなエキセントリックな俳優がそのころの私の贔屓で、憧れの念まで抱いていた。

同じ頃、封切られたメル・ブルックス監督の『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)もとても面白かった。最初に企画を持ち込み、脚本を書き、主演までしたジーン・ワイルダーは、子供の頃、たまたまユニヴァーサル映画の『フランケンシュタイン』のシリーズを観て、衝撃を受けた記憶から、このトリビュート映画を作ったと云う。とりわけシリーズ第3作目の『Son of Frankenstein』の影響が強く、全体の構成はそれを下敷きにしている。もちろん、第1作目、第2作目からの引用もふんだんに、巧みに取り入れられている。もっとも、その事を知ったのは、ずいぶん後になってからの事で、その頃の私はまだユニヴァーサルの古典映画を観る機会に恵まれていなかった。それでも、『ヤング・フランケンシュタイン』は、面白かった。オリジナルを知らなくても、充分楽しめる。もちろん、古典3作品を観てからなら、よりいっそう楽しめること、請け合いだ。

『フランケンシュタイン』や『フランケンシュタインの花嫁』は、またそれぞれの俳優が素晴らしいが、たとえば『透明人間』でも、おもしろおかしい場面を作ってくれたユーナ・オコナーの起用に、お茶目だけども、人生の機微に精通したジェームズ・ホエール監督のセンスの良さが忍ばれる。

『ヤング・フランケンシュタイン』でも、俳優が素晴らしい。特に3人の女優に注目したい。ちょっとユーナ・オコナーを彷佛とさせるようなクロリス・リーチマンも、おかしいし、テリー・ガーや、マドライン・カーンも、とても笑わしてくれる。吸血鬼映画でも、その頃の私が大好きだったのは、ポランスキーの『The Fearless Vampire Killers』(1967)で、そんなしゃれたセンス・オブ・ユーモアがある映画に、心を癒してもらっていた。子供の頃の私は、友達と映画の話をする時など、溝口や松竹ヌーヴェルヴァーグやロベール・ブレッソンを持ち出す相手に対して、ロマン・ポランスキーとルイ・マルを大の贔屓にしていたものだ。それは衒いではなかった。その頃の彼らの作品には確かにあったインファンテリズムが、私にはかけがえの無いものであったのだ。近年では、オルドリッチ・リプスキーの『アデラ』がとても楽しく、幸福なひとときを体感した。

ジェームズ・ホエールの『フランケンシュタイン』2部作にも、繊細なインファンテリズムの発露がある。特に続編の『フランケンシュタインの花嫁』では、さらに。 自らの野望の実現のためには手段を選ばぬ マッド・サイエンティスト、プレトリアスのエキセントリックぶりも、なかなか演出、演技が冴えていて、瓶の中のホムンクルスたちが披露されるシーンも楽しい。メアリ・シェリーと『花嫁』の二役を務めたエルザ・ランチェスターの怪演も素晴らしい。もちろん、なんと言っても、ボリス・カーロフが素晴らしい。

ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき (原題は、EL ESPIRITU DE LA COLMENA 、「ミツバチの精霊」の意)』(1973)のヒロイン、アナは、1940年ごろのある日、スペイン、カスティーリャ地方のとある村に巡回興行でやってきた『フランケンシュタイン』を村の公民館でみんなと観て、いろんな思いを抱く。湖のほとりで少女と出会ったフランケンシュタインの創造物は、少女とお花遊びをしていたのに、画面が変わると、何故、少女は遺体になっているのか? 村人たちに追いつめられて、飛び込んだ風車小屋に火が放たれて、創造物は死んだのか? 当時、創造物が少女を湖に放り込むシーンは、カトリックの国では、カットされたそうなので、アナが観たのも、それだったのだろう。でも、アナには、創造物が少女を殺すようには見えなかった。また、創造物が村人たちから迫害されるのも、故無き事に思われた、のだろう。それほど、ボリス・カーロフの演技は、創造物が、優しく、純粋無垢である事を表現していた。この映画によって、フランケンシュタインの創造物は、精霊となった。

ジェームズ・ホエールは、イギリスの労働者階級の生まれ。その繊細な感受性故に、周囲との不調和に悩まされたと云う。そしておそらく、彼はゲイだった。映画『フランケンシュタイン』には、そんな彼の孤独が反映されているし、孤独と無理解に苦悩する者への優しい共感がある。

それにしても、メアリ・シェリーは何故、この創造物に名前を与えなかったのだろうか? 創造物はフランケンシュタインの影、つまりドッペルゲンガーなのだろうか? フランケンシュタインは何を怖れているのだろう?  この小説の中で、フランケンシュタインが常に、彼の創造物から逃れようとしているように見えるのは、何故なんだろう? 創造物は、自分の創造主に、ただ、愛と対話を求めているだけなのに。創造物が切実に愛を求める自分の願いを訴える様は、悲哀に充ち、ゆるぎない尊厳がある故に、胸を打つ。創造物はメアリ・シェリーであり、フランケンシュタインはウィリアム・ゴドウィンなのか?

メアリ・シェリーにとって、母親とは、彼女の残した著作や原稿そのものであった。メアリは母親の他人に読まれる事を想定してない日記や手紙まで読んでいたようだ。彼女はそうした母親のテクストを墓地で読んでいた。そして、父親にも思想と肉体の一致(家庭の中の父親とウィリアム・ゴドウィンの著作の一致)を見ていた(求めていた)のが、彼女が父親の手から離れた瞬間に、その分断と不一致が露呈してしまう。そして、現実に生活をしている父親は、メアリを疎み、打ち捨ててしまうのだった。メアリやパーシーは、親から見ると、理解しがたい怪物のような存在だったのかもしれない。いや、バイロンも含めて、世間の人々からは、怪物や悪魔のような存在だったのだろう。

それ以降、彼女を導くのは、母親がそうであったような書物としての父親である。肉体の無い、哲学が、彼女の父親となった。フランケンシュタインの創造物もそうだ。彼は、生まれるや否や、疎まれて、打ち捨てられてしまったので、自ら言葉を覚え、書物を読んで、自己を形成してきたのだった。彼が読んで、深く感動し、思索の幅を広げたのは、ゲーテの『ウェルテルの悲しみ』、ミルトンの『失楽園』、『プルターク英雄伝』の3冊による。創造物が、創造主ヴィクター・フランケンシュタインに対して、滔々と語り、ダイアローグするところは、サドの小説の主人公を思わせるけれども、悪徳に荷担するサドの主人公は、笞を振るうように一方的に己の行為を正当化する言辞を弄する。それに比べて創造物は、もっと謙虚で、尊厳があり、言葉や論理を弄しない。バイロンやパーシー・シェリーは、サドを読んでいたから、メアリもサドを読んでいたにちがいない。1791年には『ジュスティーヌ、あるいは美徳の不幸』、1797年には『新ジュスティーヌ』と『ジュリエット』が刊行されている。創造物がウィリアム坊やを殺したのに、まわりの人間どもからよってたかってその犯人の濡れ衣を着せられて、裁判で有罪になり、絞首台に架けられて殺されてしまうジュスティーヌの、その名前とエピソードには、サドの『ジュスティーヌ』の影響がある、と私は思う。そして、ヴィクター・フランケンシュタインは、この時も、何を怖れてか、卑怯にもジュスティーヌを見殺しにしてしまうのである。

しかしながら、サド、バイロン、パーシー・シェリー、メアリ・シェリーに共通する事は、禁忌への侵犯である。シュルレアリスムが、ロマン派の末裔であると位置づけたのは、マリオ・プラーツだったと記憶するが、禁忌への侵犯において、彼らはシュルレアリスムの先駆者であると、私は言いたい。

1935年5月、残酷劇を提唱したアントナン・アルトーは、シェリーの劇詩『チェンチ一族』を基に戯曲を書き、舞台にあげたのだった(余談だが、舞台衣装と美術は、バルテュスが担当した)。その前年には、サドのあの美しい『ユウジェニー・ド・フランヴァル』をピエール・クロソウスキーが戯曲にした『ヴァルモールの城』の上演を考えていたが、それは実現しなかった。おそらく、『ユウジェニー・ド・フランヴァル』が『チェンチ一族』の中に溶け込んで行ったのだろう。もともとサドの『ユウジェニー・ド・フランヴァル』構想の基になったのは、チェンチ一族の伝説だったとも思われる。そこに描かれたのは、甘美で悲痛な禁忌への侵犯行為であった。