◎第1回 レオノール・フィニー
(タコちゃんに捧ぐ)
わたしの生涯2度目のパリ旅行は、わずか2泊3日の滞在だった。92年の7月のことで、初夏の明るい日々を過ごした。
現地で合流した渋谷駅前画廊(とそこの関連者が自嘲して言う)MのマダムOが常宿にしているというセーヌ通りのオテル・ルイジアンナに、わたしも部屋を取ってもらった。かってサルトルやボーヴォワールも使ったことがあるというそのホテルは、その辺りでもいちばん趣きがないほうだっただろう。でも、居心地のいいホテルで、ひとことで言えばカジュアルな感じ。便利な立地と相まって、その後も度々、泊まった。
朝は市がたち、新鮮ないちごを買って、歩きながら食べたりした。その通りは画廊や本屋の多いところで、昔から界隈の画廊主や芸術家たちが集まるカフェ、ラ・パレットがあるし、観光名所のカフェ・フロールやドゥ・マゴも近い。そんなわけで、終日、そのあたりをうろうろしているだけで、事足りてしまうのだった。
その時は、四谷シモンさんや、ウニカ・チュルン研究家の宮川尚理さんとも落ち合って、よくいっしょに食事をした。夜はゲイ・バーにも行った。大月雄二郎さんとも、その時初めて知り合った。彼は状況劇場以来のシモンさんの友人で、役者をやめて、パリで絵描きになっていた。モンパルナスの彼のアトリエも訪問した。また宮川さんからは、あのマルセル・ベアリュの若く美しい未亡人が亡夫の跡を継いだ古本屋さんなどを教わった。鉛筆でエロティックというより哲学的な作品を描く林良文さんを知ったのもこの時だった。パンタン(ブルトンが幼年期を過した)にあった自動車博物館に行ったり、田舎まで吉田秀樹画伯のランチア・フルヴィア・ザガートを乗りに行ったりしたのだから、3日のあいだ、よく活動したものだ。
またある日は、パリ在住の美術コーディネーターのひとが、ウニカ・チュルンのタブローをホテルに持って来て、見せてくれた。黒い下地にウニカらしい線描の作品だった。ちょうどウニカの版画集 ''ORACLES et SPECTACLES" と同時期の作品であると思われた。(そう、この作文のタイトルは、彼女の作品から頂いたのでした。)
たぶん、その日のことだったのだろう。何人かでその界隈のお店を冷やかしながら歩いていて、とあるアパルトマンの中庭に入り、そこから地下に降りて行くと、想像よりも広くて、しかも明るい画廊になっていた。その贅沢な空間でレオノール・フィニーの個展を見ることができたのは、大きな歓びであった。彼女の作品の実物をみるのは、初めてであった。油彩の大作が何点も掲げてあり、それを美術館ではなく、こんなになにげに出会うことができるなんて、パリってやっぱりすごいなあ、と思った。彼女はきっとパリに住んでいるのだろうから、ひょっとしてこの街で出会えたら、なんて夢想したりした。

レオノール・フィニーの作品を初めて見たのは、澁澤龍彦さんの『幻想の画廊から』でなければ、角川文庫版サドの『悪徳の栄え』か『美徳の不幸』のカバーのいずれかであっただろう。特に、文庫カバーの2作品(それぞれ『秘密の祭り』と『金星急行』)が好きだった。その時代の彼女の作風は、華麗な色彩のアール・ヌーヴォー調。その頃見たベルナルド・ベルトリッチの『暗殺の森』に、アール・ヌーヴォー風の寝室でステファニア・サンドレッリとドミニク・サンダが睦みあうシーンがあって、同じ雰囲気を醸していた。もちろん、その映画も大好きだった。
19歳のころに、それまで欲しくて欲しくてたまらなかった、レオノール・フィニー画集をやっと、手に入れることができた。ローザンヌのクレールフォンテンから出版された画集の日本語版で、河出から1974年に限定1000部で出版された。コンスタンタン・ジェレンスキーの解説の翻訳は澁澤龍彦さんだった。それが、その頃のわたしの宝物となり、何度もページをめくり、見飽きなかった。その画集で特に好きだったのは、やはり64年頃からの彼女の新しい傾向が現れたアール・ヌーヴォー風の作品で、たとえば、『不在者の帰還』『あちら側』『開封された部屋』『いつかの夏のガラス窓』『出口なき存在」『パルカエ・ホテル』などである。
 わたしが思うのは、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグとの親近性である。彼が書く幻想と、フィニーが描く幻想の類縁性である。何も彼の短編『仔羊の血』が、フィニーから聞いた、彼女の幼い頃に受けた衝撃、可愛がっていた兎を料理されてしまうという悲痛な出来事への共鳴(マンディアルグもまた、子供の頃、ノルマンディーの別荘の庭によく出没した蝦蟇蛙を可愛がっていたが、ある日母親に命令された庭師が潰してしまう、という共通するトラウマがあった)によって書かれたとか、ふたりともに高貴で優美な猫たちに、生涯で最も大切にした人たちへの愛に劣らぬ愛をそそいだこととか、アール・ヌーヴォーへのノスタルジーとか、フィニーがくりかえし水辺の女たちを描いたこと、あまつさえオフェリアまで描かずにはいられなかったことと、マンディアルグのオフェリアのイメージヘの偏愛(たとえば、『1914年の夜』)とか、だけではなく、おそらく、お互いがお互いの内に心を許せる部分(と云うより、核心)と共通の嗜好を発見し、暗黙の裡に深い理解が成立したのだろう。
たとえば、フィニーの『手術 1 』(1939年)を見てみよう。このモデルは、マンディアルグとフィニー自身と云われるが、ふたりともに同じ種族に属する共通の顔立ち(アルカイックで、東方的)をして、おんなはおとこの背後に立ち、右手の人差し指をおとこの髪のなかに入れている。それが、ヘア・カットを暗示しているとすれば(2年後に描かれた『手術 2』では若い娘の髪を老婆が剃刀で鋤いている)、紀元前のパレスチナの妖艶な娼婦デリラが、ヘブライ人の怪力おとこサムソンを手練手管で懐柔し、その怪力の因って来たるゆえんが神の宿る髪にあることを聞き出して、その髪の毛を剃り落せば、たちまち怪力を失ってしまうことを、サムソンとは敵方でデリラを買収したペリシテ人に教え、クラナッハやルーベンスが描くところでは、デリラをすっかり信頼して赤児のごとく安心しきって彼女の膝のうえでまどろむサムソンの背後に、ペリシテ人の兵士が迫り、やがて髪を剃られて、怪力を失ったサムソンは、両眼を抉られてしまう、という旧約聖書の物語は、オペラにも絵画の主題にもなっているのだから、それを踏まえているとしても、むしろその主題を嘲笑って無効にするかのように、フィニーのこの作品のなかではあらかじめおとこには現実に効力を発揮する力も無いし、あらかじめおんなもおとこに媚態を示すことは無い。だからこの絵が伝えようとしていることは、瞑想するおとこの瞑想を指をあてて汲み取り、同時におんなも自分の思いを指先から流し込んでいるような、同じ夢の世界の共有ではないだろうか?それゆえにふたり供に、眼を閉じているのだ。この絵のなかでふたりが兄妹のようによく似ていることも、精神的に兄妹(いや、姉弟というべきか)であることを示している。
フィニーの絵画空間はマンディアルグの文学空間と同じく、そこで神話にもひとしい悲劇が起こった舞台である。もしくは、秘儀がおこなわれる祭壇である。登場人物は、魔術的な力を持つおんなやおんなの化身である。ゴシック・ロマンに登場するような激越な感情を秘めた宿命的人間である。仮に現存した(あるいは、する)人物が描かれたとしても、それは現代ではなく、遥か過ぎ去って行った時代の人間のようである。人間の社会のなかで去勢されてしまった文明人ではなく野生の人間である。もしくは野獣、半人半獣の怪物たち。
たとえば、『黒い部屋』(1939年)を見てみよう。このモデルは、レオノーラ・カリントン。
[レオノーラ・カリントン]
1917年にイギリスの大資本家の家庭に生まれたカリントンは学校教育に馴染めず、彼女としては自然に振る舞っていることが廻りからは反抗的態度にとられてしまって退学を繰り返していた。彼女の両親はほとほと困ってイギリス上流階級の常套手段たるイタリア留学に遣った。幼ない頃から絵を描くのが大好きだった彼女はフィレンツェで様々な巨匠たちの作品を見た。1年間のイタリア留学の後は、パリの礼儀作法を学ぶフィニッシング・スクールに入れられたが、そこも数ヶ月で放校されてしまい、早くこの手に負えない娘を結婚させたいと思った両親はリッツ・ホテルでレオノーラの舞踏会を催し、ジョージ5世の宮廷舞踏会で正式に社交界にデヴューすると、そのシーズンのすべての舞踏会に出席させた。けれどもカリントンは、今までは両親の望むように従ってきたのだから今度は自分の好きな絵を学びたいと主張した。母は娘に言った、『画家なんて言う人たちは町で知り合った女とすぐにくっついては屋根裏部屋で暮らす道徳のかけらも無いボヘミアンなんだから、贅沢にくらしてきたあなたができることじゃないわ。』しかし、頑固に言い張るレオノーラに負け、実際にやらせてみたらすぐに生活の苦しさに音を上げて戻ってくるだろうとたかをくくって、チェルシー美術学校へ通うことを認めた。ロンドンの一人暮らしは楽しかった。毎日絵を描いて暮らし、仕送りの少なさなんて苦にならなかった。やがてカリントンの才能を最初に認めたアメデー・オザンファンの学校に移った。1936年にはローランド・ペンローズの働きかけでロンドンでシュルレアリスム国際展が開かれて、社交界でも話題に上った。それで母はレオノーラに評判になっていたハーバート・リードの本を贈り、彼女はマックス・エルンストの作品を初めて見て共感した。そして、その翌年の1937年には個展のためにロンドンを訪れたエルンストと運命的な出会いをするのである。最初に恋に墜ちたのはエルンストのほうだった。既に自分の進む道を確信し、希望に燃え、怖いもの知らずの18歳の娘は何と美しく魅力的だっただろうか。また旧弊で窮屈なヴィクトリア朝モラルのなかで窒息しそうだったカリントンにとってはやっと窓が開く思いがした。これは理想の未来へ向かって飛び立てる絶好の機会の到来だった。
エルンストの個展開催に尽力したローランド・ペンローズは、航海士の弟が航海で不在中に彼のコーンウオールの壮麗な屋敷を借りることにして、パリからやって来たポールとニュッシュのエリュアール夫妻とマックス・エルンストが夏のヴァカンスを過すことができるように用意した。そこに、カリントンもエルンストに誘われて一緒にやってきたのだった。そして、マン・レイもふたりの女性を連れて来た。恋人のアディと、もう一人はニューヨークからエジプトに嫁いだリー・ミラーだった。彼女はエジプトの日常に退屈して、リーにだけは寛大な夫の承諾を得てパリに遊びに来たその日の夜、シュルレアリストたちが集まる仮装パーティーで、5年ぶりにマン・レイと再会したばかりだった。1928年の夏、ニューヨークでヴォーグのモデルをしていたリー・ミラーは写真家になろうと思い立ち、エドワード・スタインケンの紹介状を片手に、明日からヴァカンスでパリを離れようとするマン・レイのもとに突然やって来て、無理やり弟子入りして愛人にもなって、それから3年間一つ屋根の下に暮らしたあげく、また突然ニューヨークに帰って行った。けれども、今回はローランド・ペンローズに会いに来たのだった。と言うのも数週間前の仮装パーティーでリー・ミラーは初めて遇った彼に抱かれて、そのまま恋をしてしまったので。
カリントンはエルンストを追ってパリに行き、サン・ジェルマン・デ・プレのそばにアパルトマンを借りて同棲する。「セーヌ河岸を散歩したり、本屋を冷やかしたり、ポン・ヌフからセーヌを眺めたり、ただそれだけのことでもなんて楽しいのでしょう。」そして、シュルレアリストとの交遊がはじまった。カフェ・フロールで、ブルトンやエリュアールやペレやレメディオス・バロ(のちにメキシコで親しくなる)と出会い、エルンストに連れられて時おり集会に参加した。しかし家出娘の破廉恥なボヘミアン生活にカリントンの父親はかんかんで、それ以来父娘がまみえることはなかった。
翌1938年の夏にふたりは南仏アヴィニョンに近いサン・マルタン・ダルディッシュの廃墟を買って、アトリエにした。時にエルンストは46歳、彼こそは世間が非難するふしだらなボヘミアンそのものの人生を歩んで来た男だった。ポール・エリュアールが十代の頃スイスのサナトリウムで知り合って1917年に結婚した妻のガラ(のちにダリの終生の妻となる)とケルンにやって来た時(1921年11月)、ガラに横恋慕して三角関係となり、ボン大学の同級生だった最初の妻ルー・シュトラウスと息子を棄てて、そのままふたりを頼ってパリへ行ってしまった。エルンストはすでにケルンでのダダ展以来危険人物と看做されビザの発給が不能になっていたので友情に厚いエリュアールが自分のパスポートを渡して国境を越えることができるように計らったのだった(それは紛失したことにしてエリュアールは自分のパスポートは新たに再発行してもらったわけだ)。そしてエリュアール家で4人一緒に住んだ(ポールとガラの間には娘のセシルが生まれていたので)。その後はポールのアジアへの失踪事件もあって、エルンストはガラから離れた。レオノール・フィニーともつきあったが、その頃には若いマリー・ベルトと結婚していた。エルンストとしては、シュルレアリストの内部闘争から距離をおくためというよりも、一緒の生活が上手くいかなくなっていたマリーから逃れるためにパリから離れたようなものだ。
レオノーラ・カリントンとエルンストが作品制作と愛の日々を送った、このアトリエにはリー・ミラーとローランド・ペンローズが数日間立ち寄り、レオノール・フィニーとマンディアルグらが夏の間、滞在した。レオノールとレオノーラのふたりはパリで最初に出会って以来、仲良しだった。エルンストとの生活は『それはわたしの人生に於ける楽園だった。』とカリントンが回想するように、感覚と官能の昂揚に充ちた素晴らしい日々であった。みずからを鳥の王ロプロプとしたエルンストにとって、レオノーラ・カリントンはまさしく風の花嫁だった。
しかし、かれらの人生最後の夏休みは、突然終わりを告げられた。1939年戦争の軍靴が迫り、ドイツ人のエルンストは敵国人として収容所に連行されてしまったのだ。彼の作品はドイツ本国ではナチスによって退廃芸術の烙印を押されていたから、もうどこにも彼の居場所はないかのようだった。エリュアールが大統領に宛てて書いた手紙が功を成しその年のクリスマスに一度は解放されたが、翌年5月村民の密告で再び憲兵に連行されてしまった。カリントンにとってそれだけがすべてであったマックス・エルンストとの調和した世界が破壊されてしまって、その絶望と苦しみから、カリントンの精神は均衡を失った。『マックス、わたしはあなたなしには生きられない。今、わたしは生きていることの実感、詩と絵画の感覚のすべてを失いつつある。あなたを知って初めてわたしはそのすべてを知ったのだから。わたしは戦う。わたしはマックス以外のすべての人間と戦う。』しかし、彼女の立場も安全ではなかった。村民たちの敵愾心を背にして彼女はスぺインへ逃れるが、そこで精神病院へ入れられてしまう。いとこの尽力で解放されると、リスボンに向かうが、その途中マドリッドの酒場で、以前パリでピカソから紹介されたメキシコ領事館の外交官レナト・レドックと偶然再会した。そして、ヨーロッパを脱出するための便法として、彼の友人に提案されて結婚した。リスボンでは、収容所から脱走してきたエルンストとも再会した。彼もまた、ヨーロッパ脱出のために、大富豪のアメリカ人の娘ペギー・グッゲンハイムに言い寄っていた。ペギーはエルンストを愛していたが、エルンストは本心ではペギーよりもカリントンを愛していた。しかし精神錯乱のあと、レオノーラ・カリントンの壊れたこころは別の次元に移行してしまったようだった。もう、かってのふたりだけの楽園を再構築するのは不可能なことだった。そして傍目にも、子供のように自己中心的で我がままなエルンストよりも、慈愛に充ち、包容力のあるレナトの方が、まだ心の傷の癒えない彼女にはふさわしいと思われた。
1941年、ペギーとマックス・エルンストはパンナム・エアで、レオノーラ・カリントンとレナトは客船で、それぞれニューヨークヘと脱出した・・・。ニューヨークには前後して亡命したアンドレ・ブルトンやイブ・タンギーやケイ・セージやアンドレ・マッソンやデュシャンやマッタもいた。リスボンでそうだったようにニューヨークでもカリントンをあきらめきれないエルンストは彼女と度々ランデブーして、その時だけ束の間歓喜に充ちた表情を見せる彼にペギーは嫉妬心を掻き立てられた。また、彼は何枚ものカリントン像を描いた。
カリントンにとって、エルンストは、自らが本当に表現したかった世界へ、いかなる術で飛び込めば良いのかを教え、導いてくれた魔法の導師であった、と思われる。その時期に若いカリントンの才能が早くも開花しているのだから。しかし、いったん秘密の扉の開け方を知ってしまった彼女は、エルンストとは別の世界への道を歩んで行くしかなかったのだろう。
翌1942年、レオノーラ・カリントンはアメリカに失望したレナトと彼の友人たちとともにクルマに乗って、メキシコへ渡る。そこで、レメディオス・バロとバンジャマン・ペレ(彼らもまた、ペギーに助けられて亡命した)と再会し、やがてパリにいた頃よりも親密な仲になった。ある日彼らのパリでの友人で、ロバート・キャパがヴィザを融通してくれたおかげでメキシコに亡命ができたハンガリー系ユダヤ人の写真家チキ・ヴァイズとレオノーラ・カリントンが出合った。彼女は彼と遇うなり、恋に墜ちたのだった。そして、レナトのもとから去った。でもレナトにとって彼女は恋人と云うよりも友人と謂うべき存在だったので、彼はむしろ安堵したようだった。カリントンがメキシコの市民権をちゃんと得られるようにした後に彼は離婚に同意したが、それからもレナトは何かとカリントンを助けた。また、フリーダ・カーロ、カティ・オルナらと知り合い、やがてメキシコに新しいシュルレアリズムが育ち始めるのだった。ルイス・ブニュエルもアメリカ経由でメキシコに亡命して来たが、カリントンは端役だけども彼の映画に出演している。いっぽうエルンストは、ペギーとの愛の無い結婚生活から逃れて、終生の伴侶となるドロテア・タニングと出会い、一緒に暮らし始める。ニューヨークでは嫉妬に狂ったペギーから嫌がらせを受けるので、ふたりはアリゾナにひきこんだ。何も無い砂漠のなかにふたりは自分たちの手で家を建て、井戸を掘り、電気が無いのでランプで生活した。
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フィニーが、カリントンとエルンストのアトリエで、カリントンの肖像を描いていた時、トリスタン・ツァラの来訪時の態度に腹を立てたフィニーは、その絵を描き続けることを放棄してしまったと伝えられるが、それはこの『黒い部屋』とは別の作品なんだろうか。ともあれ、これはエルンストとカリントンの密月から、彼が収容所に連行される頃に描かれたようである。シュルレアリストやその周辺にいた芸術家のなかでも、日常的にもっとも過激な振る舞いで知られたフィニーから見て、カリントンこそは真の革命家であった、と云う。この作品のなかで、カリントンは、ジャンヌ・ダルクのような戦士として描かれている。写真で見るこの頃のカリントンのたおやかな雰囲気は微塵も無く、時空を超えて現れた、戦乱の時代の戦うことを宿命とされた兵士のどこか遠くを見つめるまなざしと、人の眼を意識しない凛とした無表情、そして敵を前にして身じろぎもしない不動のたたずまい.。彼女はまさしく、これからエルンストの奪還に向かおうとしているところだ。しかも、この兵士は、誰かに仕えているわけではない。ただ、自分の情熱によってのみ、突き動かされる存在だ。そう、レオノーラもレオノールも、いつだってすべてのことを自分の意志で決めて来た。そして己の欲望に忠実であることが誠実な態度であることを知っていた。ポール・エリュアールにとっても、またとりわけマンディアルグにとっても、そんな女性こそが賞賛に値した。レオノーラ・カリントンこそはレオノール・フィニーの作中に登場するのにふさわしい存在であったし、またフィニーはふかくカリントンを理解し、この予言的な作品を描いたのだ。
レオノール・フィニーの写真を見ていると、いつも超然として、人を寄せ付けない表情が窺われる。これはまさしく野獣の貌だ。彼女は野蛮な人間の側ではなく、殺された兎の側にいて、それ故に滅多に人には心を許さない。わたしはまた、マンディアルグの短い物語を思い出す。それは1960年に刊行された短編集『燠火』に収められた『ロドギューヌ』。マンディアルグの『仔羊の血』が、フィニーの幼児体験に基づいて描かれたことは既に述べたが、この物語にもまた、その残響がある。『ロドギューヌ』こそはフィニーのある悲劇的な側面を描いている。必ずしもロドギューヌ=フィニーではないけれど、この物語には、そしてヒロインのロドギューヌには、マンディアルグが感じるフィニーの強さと脆さが投影されている、とわたしには思われる。そして、ロドギューヌに愛と関心を抱くが、無力な語り手は、ほとんどマンディアルグみたいなものだ。
レオノール・フィニーは1907年8月30日にブエノスアイレスで生まれた。母マルヴィナ・ブラウンは、オーストリア、スロヴェニア、ヴェネチィアの血をひくトリエステの人。父エルミニオ・フィニーはナポリ近郊で育ったスペイン系の実業家だった。2年後、母は女癖が悪く、暴君の夫から逃れて、トリエステに帰った。しかし、おのれの面子のために子供を連れ戻そうとする父親の手下が度々レオノールの誘拐を試みたので、彼女の幼年時代は不安に充ちた日々であったと謂う。動物が大好きで、猫を可愛がり、犬のドンと文通をしていた。ドンの返事は優しい母が内緒で代筆をしていたのだけれど、レオノールはすっかりドンが書いたものだと信じていた。そんな彼女にとって、可愛がっていた兎がある日料理されてみんなの夕食になってしまったことはどんなに大きな衝撃であったことだろう(のちに彼女はこの悲しいエピソードを何度も2歳年下のマンディアルグに語ったに違いない)。やがて、絵を描き始めたレオノールは、12歳にして病院の死体安置所で、死体のスケッチを始めた。また、学校には馴染めず、トリエステじゅうの学校を反抗的態度で放校された。しかし、ブラウン家はアール・ヌーヴォーの花開くベル・エポックのコスモポリタン都市にふさわしい文化的環境をもっていた。母と母の両親と同居していた叔父は反ファシストの共産党シンパの弁護士で、イタロ・ズヴェーヴォ、ウンベルト・サバらと交流し、自宅の図書室には、プルースト、カフカ、ジョイスなど当時の前衛文学がそろっていたし、ベックリン、クリンガー、クリムト、ビアズレー、そしてラファエル前派、ドイツ・ロマン派の画集もあった。彼女にとって学校は不要だった。動物たちと書物からすべてを学んだ。だから彼女はシュルレアリスムと出会う前から、その源泉をも熟知していた。あとになってマックス・エルンストにドイツ・ロマン派を再発見させたのはフィニーであった。サバが詠んだボーラ(冬の強い季節風)の吹くトリエステは坂の多い港町だったが、オーストリア=ハンガリー二重帝国(ムージルによってカカーニエンと呼ばれた)の唯一の港であり、様々な人種の集まる華やかな国際都市であった。フィニーもスロヴェニア語、イタリア語、ドイツ語などを自然と身につけていたようだ。1925年からフィニーはミラノに住む。過去から現代に到る様々な作品との出会い。特に、ピエロ・デラ・フランチェスカに感銘した。絵だって独学だったが、既にカルロ・カッラやキリコと交流していた。そういう文化環境にいたわけだ。1931年、ミュンヘンの展覧会に出品してしばらく滞在した後、家族と離れて、パリに住むことになった。
その年から翌1932年にかけて、マックス・エルンスト、ポール・エリュアール、マン・レイ、ヴィクトル・ブローネル、ジョルジョ・バタイユ、アンリ・カルティエ・ブレッソン、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグらと知り合い交遊が始まる。シュルレアリストの集まりに誘われたが、彼女にはそれが滑稽でおぞましいものに思われた。ブルトンがモーゼのごとく神託のように厳かに話す、そのご大層な身振りが許容できなかった。レオノーラ・カリントンもブルトンのそういった面は不愉快に思っていたが、ニューヨーク亡命中はブルトンの話は馬耳東風に聞き流しながらも、彼の娘のオーヴの子守りは良くしたものだった。フリーダ・カーロもあんなに憧れていたのに、尊敬するブルトンとの出会いは、逆に幻滅をもたらした。シュルレアリスムの指導者ブルトンはシュルレアリスムを守り育てて行くために、厳格な法王の役割をせざるを得なかった。だから非-順応主義者の自分自身もシュルレアリストではなかったと云うフィニーは、カリントンもまたシュルレアリストではなかったと云う。きっと、その当時ふたりが出会うと、ブルトンやその集まりのことを話題にしては、悪口を言い合っていたに違いあるまい。けれども彼女たちはシュルレアリスムに多くを負っている。そしてシュルレアリスムにとって彼女たちは不可欠の存在だ。なぜならば彼女たちはシュルレアリスムの体現者だからだ。
1932年11月には、パリで最初の個展を開催した。クリスチャン・ディオールがディレクターを努めるギャラリー・ジャック・ボンジャンで、パンフレットにはマックス・エルンストが寄稿した。それ以来、戦争直前の1939年に友人のレオ・キャステリとともにヴァンドーム広場の画廊で催したシュルレアリストたちによる家具展まで、いくつもの展覧会に参加した。ほとんどがシュルレアリスムの展覧会である。
その頃のマンディアルグは、まだ作品の一つも発表したことのない、ブルジョア・ボヘミアンだった。ナイト・クラブに入り浸り、他の店が閉まる午前6時に開店するピガールのバーでブルースを聞きながらまた飲みなおす、と云う暮らしぶりだった。20代の彼が情熱を傾けていたのは、ジャズだった。ルイ・アームストロング、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカー、・・・。また、アメリカ製の大きなコンパーティブル(要するに数人乗りのオープンカーだ)を中古で手に入れていたので、それでヨーロッパ中を旅行した。ハンガリー、ルーマニア、ギリシア、トルコ、ダルマチア、・・・。一人旅のこともあったが、古くからの友人アンリ・カルチェ・ブレッソンともよく旅をした。そして、後ろの席にはレオノール・フィニーが乗っていることもよくあった。
1939年の夏、マンディアルグのクルマに乗って、フィニーは、前述したようにエルンストとカリントンがふたりきりで住んでいるサン・マルタン・ダルディッシュを訪れて、ひと月ほど滞在した。その後はアルカションに向かった。9月のある日フィニーが友人たちとアルカション湾で海水浴を楽しんでいるあいだ、マンディアルグは、といえば彼はひとりで浜辺で砂を掘ってマテ貝を採るのに夢中になっていた。子供の頃毎年夏にはノルマンディーの海で磯遊びをするのが無上の楽しみだった彼はそんなことについつい熱中してしまうのだった。その日彼らはついにフランスとドイツとの戦争が始まったことを知った。エルンストが逮捕されたのはその翌日だった。まもなくパリを脱出してきたダリとガラがやって来た。ちなみにドミニック・ボナの評伝『ガラ』(筑摩書房1997年刊行)の225ページの写真のキャプションで、ダリとガラと一緒に写っている、無愛想な眼差しの詩人ポール・エリュアールとされているのはマンディアルグの間違いであり、名前の解らない一友人とされているのがレオノール・フィニーその人である。それはアルカションの海辺でのスナップ写真だった。フィニーたちもダリたちもその地方に1年留まるが、ドイツ軍がパリに侵攻したニュースを聞くとダリとガラは慌てふためいて荷物を纏めて国境へ向かった。その有様をフィニーは冷ややかに眺めていた。そしてダリたちはニューヨークへ亡命する。たまたまマン・レイも同じ船に乗り合わせた。
マンディアルグとフィニーは、モンテカルロに行き、戦争の間、ほとんどそこに留まることになる。フィニーはそこで知り合った友達のうち意にかなう人たちの肖像画を描き、その間マンディアルグは図書館に通い、ノヴァーリス、ヘルダーリン、クライスト、アルニムや、スウェーデンボリや、キーツ、シェリーや、モーリス・セーヴ、ノディエ、ネルヴァルの世界に沈潜した。ニースの古本屋でエルヴェ・ド・サン・ドニ侯爵の1867年に出版された『夢およびそれを支配する方法』を発掘したのもこの頃で、フロイトも入手できなかった稀覯本だった。ブルトンの1932年に発表された『通底器』で再評価されたこの本の影響で、マンディアルグは夢の記述を試みるようになる。いわば彼は徹底的にこの時代の現実に背を向けていたようなものだ。そしてこのモナコでの汚れた歳月の間に詩人マンディアルグが誕生する。1943年、彼の処女出版となる『汚れた歳月』が、レオノール・フィニーの挿絵を添えて密やかに出版されたのだ。
1943年に、レオノール・フィニーはアドリア海のジュリオ島で冬を過ごした。この島で見かけた動物の白骨が彼女を魅了する。その自然のなかで、植物が芽生え、成長し、また枯れて土に還ろうとするその生と死の循環のなかで、かりそめにも肉体が滅びた後も永遠であるかのような白く美しい骨に惹かれるものを感じたらしい。そして、それが彼女の作品のモチーフのひとつとなった。また、わたしにはこの島におけるフィニーがマンディアルグに霊感を与え、それが『ロドギューヌ』に色濃く反映されているように思われるのだ
ところで、モナコではフィニーにとって生涯に及ぶもう一つの出会いがあった。モナコ駐在のイタリア領事スタニスラオ・レプリと知り合ったことだ。1942年には彼の肖像を2点は描いているが、またフィニーは彼の画才を認めて、画家になることを勧めた。そして、レプリは外交官への道を断念して、レオノール・フィニーとともに歩むことになる。
1945年、フィニーはしばらくローマに滞在する。大女優アンナ・マニャーニ、フェデリコ・フェリーニ、アルベルト・モラヴィア、ファブリツィオ・クレリチ、マリオ・プラーツらそれぞれの分野で戦後のイタリヤを代表することになる人物たちと知り合い、肖像画を描いたり、交遊したり。
翌1946年にはパリに行く。戦争前にマンディアルグが住んでいたマレーのペイエンヌ通りに戻り、マンディアルグとレプリと3人で暮らすようになる。もちろんふたりにとって、レオノールはおのずとあがめられるべき存在であった。すべては彼女の思うがまま。
[エリュアールとブルトン]
3人といえば・・・、エリュアールにとって、ガラは最初のミューズであり、最初の女であった。しかもニュッシュと出会ってからも、いつも3人で暮らしたいと思うほど、ガラへの気持ちは覚めなかった。
モスクワからやって来たガラは徹底的に現実的な女、彼女ほどシュルレアリスムから遠い存在も無いだろう。彼女は1894年にタタール(現タタールスタン共和国)の首都カザンで生まれた。カザンの女といえば、その比類無く官能的な肉体がロシア、オリエントで評判高く、イスラムのカリフ(王)たちのハーレムに高値で売れたというが、ガラもそんな官能性を秘めていたのだろうか。少なくとも武器には使ったのだろうか。ともあれ、エリュアールもエルンストもダリも、彼女には屈服したかのようだった。
とりわけダリは、ガラによってダリとなったといってもいいほどだったが、またガラにとってもダリに出会ってようやく自分本来の力を運命的に自覚し、発揮することができるようになった。そうだ、ガラはダリと出会ってはじめてそれまで隠されていた大地母神の相貌を現したのだった。
マックス・エルンストもまた、女たちにとっては気紛れな神のような存在だったのだろう。愛し合っている時には絶対の力を発揮する荒ぶる神のような。その刹那、女を官能の高みにさらって行ってくれるような本当の男としての荒ぶる神。
けれども、愛と自由の詩人ポール・エリュアールはちがった。もちろん官能の誘惑には望んで溺れたけれども、彼はもっと大きな愛を夢描いていた。だからこそ、最愛のガラと親友エルンストが愛し合う現実も苦しかったけれど、容認したし、むしろそれを理想に高めようとした。彼はまさに愛においてシュルレアリストであった、というべき。その自由な愛という理想ゆえに、ニュッシュにもガラへの愛をはばかりなく語ったのだったが・・・。
ダリとガラがドル亡者として、アメリカの金持ちたち(と自分たちも)を幻惑して贅沢と虚飾と安逸にみちた日々を送っている頃、エリュアールとニュッシュはパリで娘のセシルと母を守りながらレジスタンスの地下活動に従事していた。ゲシュタポに捕えられないよう友人たちの部屋から部屋へと頻繁に隠れ家を転々としながら、レジスタンスの広報活動で活躍した。ナチスに不服従を貫く知識人を組織し、非合法の出版活動に協力した。ビラを印刷し、一日中奔走してあらゆるところに配布した。彼の武器はただ言葉だけ。彼がニュッシュのために書いた『自由(リベルテ)』という詩が、占領下のフランスで瞬く間に伝播し、いたるところで感動と熱狂を呼び起こした。それはローランド・ペンローズとメセンスが翻訳し、イギリスでも朗読されるようになる。
1944年6月、連合軍がノルマンディーに上陸し、8月にはパリを解放する。人々は歓喜の声をあげるのも束の間、すぐ戦後の荒んだ現実に直面する。対独協力者の処刑、欠乏する物資・・・。戦中戦後のパリでの艱難辛苦の日々は、すっかりエリュアール夫妻から若々しさを奪っていた。白髪になり、痩せて肌のつやもなく。それでもエリュアールは、レジスタンスの英雄として、講演や共産党の活動で、多忙な日々を送る。そんなある日、疲れ果てたエリュアールはスイスのサナトリウムにいた。そこに届いたのは、ニュッシュが急死したという知らせだった。エリュアールの年老いた母親の看病中に突然倒れたのだ。過労による脳梗塞だった。エリュアールの絶望は深かった。もう2度と微笑むことはないかのように。友人たちも娘のセシルも、彼の自殺を怖れるほどに。
思い起こせば、1929年8月、カダケスで過したヴァカンスの最中にダリがガラ・エリュアールに夢中になり、11月のダリのパリでの初めての個展で再会すると、ダリとガラはそのまま出奔してしまった。憤る友人たちの前で、エリュアールはエルンストの時と同じようにどうせまたほとぼりが覚めたら帰ってくるさ、と寛大な態度を示していた。やがて、パリにガラとダリが戻ってくると、ポールは自分が借りた豪勢な5部屋のアパルトマンにふたりを住まわせ、自分はフォンティーヌ通り42番地の一部屋だけの慎ましいアパルトマンに引っ越した。時にはガラと寝た。相変わらずガラとのセックスの虜になっていた。ガラしか知らないダリは、ガラがすべてだったが、ガラはセックスにおいてはダリだけがすべてではなかったし、むしろその時その時の欲望で誰とでも寝ようとした。
ところで、そこにはまた、ブルトンも住んでいた。そこでブルトンとエリュアールは、かってブルトンがスーポーとともに試みた『磁場』のように、オートマティズムの詩の連作『処女懐胎』を共作した。エリュアールは愛するガラのためにもその詩を発表する時にはダリの挿絵を採用した。さて、そのころアンドレ・ブルトンもまた女たちが去っていったところだった。最初の妻シモーヌ(彼女は密かにマックス・モリーズと付き合っていた。また彼女の妹ジャニーヌはレーモン・クノーと結婚し、従姉のドゥニーズはピエール・ナヴィルと再婚した。親族そろってシュルレアリストと結婚したわけだ)と別れ、二股をかけていた愛人シュザンヌ・ミュザールももうひとりの金持ちの男と結婚してしまった。彼女はふたりの男にそれぞれ離婚するように迫り、偶々もうひとりの男の方がより早く離婚できただけのことかもしれない。もともとシュザンヌにはお金に困ってラルカード通りの娼館に勤め始めたその日の最初のお客(そして最後の客)がもうひとりの男であったといういきさつもあるし、ほとほと貧乏の辛さも知っていた。ブルトンはその男がシュザンヌにはふさわしくなく、自分こそが彼女にふさわしいと思っていたので、それでよけい彼女をほっておくことができなかったのだけれど。『わたしはその時ほどに苦しんだことはない。彼女がいないということに苦しんだ以上に、彼女がわたしから離れたどこかに現に居て、わたしが彼女のごく些細なことに就いての歓びや悲しみや、あるいは低く垂れ込めた雲を見て感じる沈鬱な気持ちとかが想像できるということに苦しんだのだ。』もはや、シュザンヌにはブルトンの言葉は届かないようだった。エリュアールにはラ・ポム(=りんご)と渾名したドイツ人の異性体験の豊富なガールフレンドもいたが、ふたりきりの時にだけ示す愛情の細やかさと性技にたけたガラのことが忘れられなかった。
1930年5月21日、エリュアールとルネ・シャールはギャラリー・ラファイエット界隈を散策中、軽やかな足取りで歩いているほっそりとして眼の大きな娘に注意を引かれた。どちらからともなく、その娘に声をかけ、カフェに誘うと、娘はすぐについて来た。カフェで娘はたちまちクロワッサンをたいらげてしまう。お腹が空いていたのだ。彼女の名前はニュッシュ。アルザスはミュールーズの生まれで、両親はサーカスの軽業師。彼女も空中ブランコをやっていたけれども、女優を志して、18歳でストリンドベリの劇にでた。その後は、グランギニョルに出演したり、ミュージック・ホールに勤めたり。それで、今は、と言えば、仕事もないし、お金もないし、今日泊まるところもない、と言う。その日から、ニュッシュはエリュアールの同居人になる。それは、エリュアールにとってのナジャの出現だったのだろうか。でも、エリュアールが、ニュッシュがかけがえのない女性であることに気がついたのは、あまりに遅く、彼女が死んでからのことだった・・・。
かって、ナジャとの不可思議な路上の恋を経験し、見失ってしまったブルトンはまた、ただその刹那、路上やカフェで見かけた女たち(二度と再びまみえることのない)に瞬間瞬間絶望的な片思いの恋をしていた。ブルトンにとって女性とはその束の間現実に立ち顕われる妖精のように超現実的な存在であったのではないのだろうか。
密かに彼を愛している女性がいることには、ブルトンはちっとも気がつかずにいたが、それは旧知のヴァランティーヌ・ユゴーだった。彼女はブルトンを夢にまで見ていた。彼女はブルトンが敵と看做していたジャン・コクトーの舞台を手伝っていたし、コクトーと同じ建物に住んでいたが、ブルトンの活躍する様を見て、著作を読んで、尊敬の念と恋する気持ちが昂まっていたのだった。ちょうどブルトンが『通底器』を書いている頃で、ふたりは度々、自動車旅行をした。そしてブルトンと同じ建物に引っ越して来た。後にユゴーは、人生のうちでもっとも辛い時期だった1930年頃、エリュアールとブルトンの存在が絶望から救ってくれたと回想する。彼女が1935年に描いた『星座』や、1933年に出版されたアヒム・フォン・アルニムの『不思議物語集』の表紙絵から、彼女のブルトンへの気持ちは一目同然だ。
1934年、ブルトンは新しい女性と出会う。それはリドで水中ヌードを披露していたジャクリーヌ・ランバだった。彼女が密かにブルトンとの出会いを用意していたのだった。8月14日、ふたりは結婚する。ジャクリーヌは23歳、ブルトンは38歳だった。エリュアールとジャコメッティが立ち会った。翌週には、ニュッシュとエリュアールが結婚し、ブルトンとシャールが立会人となった。シュルレアリスムにとって困難なこの時代、ブルトンは戦いの日々のさなかにその思想を一層深化させ、『狂気の愛』を準備していた。ところで、ジャクリーヌ・ランバは、それまでにブルトンの本も読んでいたし、また絵も描いていた。けれども、ブルトンは、ジャクリーヌの容姿の美しさを褒めそやす(彼女は途方もなく美しかった。花をつけたマロニエの木に降り注ぐ透明な雨のような彼女の髪。夢のような顔色の彼女の周囲では一切が急に色褪せて凍りついた。言わば古代エジプト女性の再現だ、とか)だけで、彼女の作品にはほとんど注意を払わなかった。そのためだろうか、やがて彼女は亡命先のニューヨークで、シュルレアリスムの新しい機関誌『VVV』の編集長を務めていたデヴィッド・ヘアをより自分にふさわしい男と認めて、ブルトンと別れて、ヘアのもとへ走った。ヘアは彼女のことばかりか、作品をも気に入ってくれたようだった。
一向に馴染めないニューヨークで、失意のブルトンは、1944年1月、新しい女性をみつけた。チリからきたエリザだった。彼女とカナダのセント・ローレンス川の河口の南にあるガスパジー半島に滞在中に、ブルトンは『秘法17』を書いた。1928年の『ナジャ』ではナジャとの別離とリーズ・ドゥアルムとの邂逅、そしてシュザンヌへの始まって間もないし不安定だけども未だ希望を失っていない恋が描かれ、1932年の『通底器』がシュザンヌへの絶望的な恋のさなかで書かれ、1938年の『狂気の愛』がジャクリーヌと娘のオーヴへの絶対の愛に対応しているように、『秘法17』はエリザとの出会いゆえに書かれたが、第2次世界大戦後の世界の変容を見据えた、それまでのブルトンの思考を深化させ、戦後のシュルレアリスムの射程まで示した予言的な書物だった。
『ナジャ』で、シメールを思わせるシュザンヌの裡なる妖精を信じ、妖精への熱烈な愛を告白したブルトンは、『秘法17』ではメリュジーヌの伝説に触れながら、ファンム・アンファン(子供であり女である存在)について語る。『ファンム・アンファン。芸術が組織的に用意しなければならないのは、感性が支配する国への彼女の到来である。』『わたしがファンム・アンファンを選ぶのは、彼女を別の女性に対立させるためではなく、ただ彼女の内にのみ、もう一つの視覚のプリズムが、全くちがう法則に従っているプリズムが、男性の専制主義が暴露すべきではないプリズムが、絶対的に透明な状態で宿っていると、思われるからである。』アンドレ・ブルトンは世界が生き返るために、メリュジーヌの到来、つまり妖精である女、子供である女の到来を望んでいるのだ。
『ナジャ』ほど、現実の生に向かって開かれた書物はなかっただろう。アンドレ・ブルトンにとって、書くことと生きることは一致していた。それは、だから、生きた書物であり、今もなお、未来に向かって開かれた書物であり続けている。アンドレ・ブルトンの書いたことは、未だ達成されない予言であり続けている。まるで、遥かな未来において書かれたかのように。
シュルレアリスムはその揺籃のときから、たとえば植物の種子のようにどんな形に育って行くのか明快に想像がつくものではなかった。第一次世界大戦のさなかに青春が始まったジャック・ヴァシェ、アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー、ルイ・アラゴンにとって、この世界は愚かで先ず否定すべきものとして現れた。アポリネールによってカフェ・フロールで引き合わされたスーポーとブルトンにアラゴンと翌年ポール・エリュアールが加わり、ダダという態度を世間に示し、さらにはダダをも乗り越えて、自分たちが到達すべきある新しい地点に進んで行くために自分たちの考えを構築したものをシュルレアリスムと名付け、1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表して、その既存の価値観を刷新し広大にひろがる思想を表明し、機関誌、ビラ、著作、講演、そして集会によって活発な活動を開始した。彼らの多くは詩人だったが、ダダがそうであったように、様々な分野の芸術家たちが参加した。ブルトンの生き方に大きな影響をあたえたジャック・ヴァシェは1919年にアヘンの過剰摂取で死亡し、それ以来ブルトンのなかでのみ生き続けることになる。特筆すべきは、彼らの集まりが、誰かのアパルトマンである場合もあったけれども、ほとんどいつも往来のカフェで催され、いわば世界に向かって開かれていたことだ。ブルトンが『シュルレアリスム宣言』で無邪気に謳ったシュルレアリストたちの城は、こんな形で実現されていたと言っても良いのではないだろうか。既に様々な活動を経て来たとはいえ、1924年には、まだ最初の仲間たちが結集していて、カフェに集まる彼らも、ブルトンを始め、希望に充ち満ちていた。しかし、それからの日々は困難な戦いの日々であった。なぜならば、シュルレアリスムは芸術と生きることを一致させたために、単なる文学運動、芸術の流派に留まることはなく、必然的に歴史の舞台の上に立ち、スターリンとトロツキー、ヒトラー、ファシズム、スペイン人民戦線、モロッコ戦争、フランス共産党、右翼、反動勢力、等の様々な問題について政治的選択をせまられたからである。シュルレアリストのあつまりのなかでは、スターリンを選択するものもいたし、超=ファシズム的言辞を弄するものも現れたし、共産党に与するものも現れた。その都度、激しい議論がなされ、アンドレ・ブルトンは、矮小で近視眼的な人間の視点を越えた透明な巨人にも例えられ得るシュルレアリスム本来の見地からのみ、判断を下した。たいていそれは理解されず、かっての盟友は、除名あるいはみずから離反し、多くの敵を作ったが、ブルトンは戦いをやめなかった。1929年の『シュルレアリスム第2宣言』で、ブルトンはこう述べなければならなかった、『シュルレアリスムの誓いに断乎として忠実であるためには、結局のところ、ごく少数の人間だけに可能なことが判明する。無私無欲と、危険の蔑視と、妥協の拒否を前提とするからである。それを基準に、自らの有意義化の可能性と、真実への願望を、率先して測定した者のなかで、たとえ誰ひとり残らずとも、やはりシュルレアリスムは生き続けるだろう。』と。ブルトンは1919年からは10年、1924年からは5年の活動を経て、シュルレアリスムの存在を確信していた。そして、シュルレアリスムの深遠、誠実な秘教化を宣言したのである。秘教化といっても、もちろん宗教ではないので、偶像崇拝もなく、教義もなく、礼拝もない。ブルトンは、ニコラ・フラメルの例を出し、錬金術師たちが『賢者の石』を探求する際のその精神的に清廉な態度をこそ、シュルレアリストたちに求めたのである。シュルレアリストであることは、生の絶対的な選択だった。一切か無か、の絶対的な選択だった。
1919年、ジャック・ヴァシェ、死亡。アルチュール・クラヴァン、メキシコ湾で遭難。
1926年、フィリップ・スーポー、アントナン・アルトー、除名。
1929年、ジャック・リゴー、自殺。ロベール・デスノス、ミシェル・レリス、ジョルジュ・ランブール、アンドレ・マッソン、ピエール・ナヴィル、ジャック・バロン、ジョルジュ・リブモン・デセーニュ、ロジェ・ヴィトラック、除名。
1932年、ルイ・アラゴン、除名。
1935年、ルネ・クルヴェル、自殺。
1938年、ポール・エリュアール、除名。
1940年、レオン・トロッキー、暗殺。 ・・・・・・死屍累々である。アンドレ・ブルトンは、曖昧な妥協を排し、シュルレアリスムを貫き通した。それは苦渋に満ちた足取りであった。
かって28歳のブルトンは、『詩が金銭の終焉を宣告し、地上のために、独力で天上のパンをちぎりとる日よ、来たれ!』とシュルレアリスム宣言の中で高らかに謳ったが、その時より生涯に渡って、彼は地上の金銭を得るための労働を受け入れることはなく、それ故に傍目からは経済的に困窮しているように見えたが、そんなことは彼の気にするところではなかった。ただ金銭の不如意をそれはそれだけのこととして受け入れるだけのことだった。
1937年に刊行された『狂気の愛』のなかで、40歳のブルトンは、1935年に生まれた娘のオーヴの未来にあてて、『1952年の春、君はやっと16歳になったばかりだろうが・・・』と、語り始める、『わたしを取り巻いていた、そして今も取り巻いている非常に大きな貧困から、わたしは後ずさったり、方向を変えたりしたことはなかった。人生への不隷属というわたしの信条への対価を支払うべきであるとの考えと、自らの思考以外には何も表現しないというわたしの永久の権利への負債を返却すべきであるとの考えとを、認めていたのだから。貧困は、わたしが貧困をあきらめることを拒否したことからほとんど不可避の結果として生じたもので、他の人々はそのような時点で、さっさと貧困に背を向け、なんらかの党派に入っていったのだ。』
アラゴンやエリュアールのように、共産党という組織に与せず、シュルレアリストの態度を貫き通すブルトンの廻りは敵ばかり。1940年、ブルトンの本が相次いで発禁処分になる。おそらく、そのままフランスに留まっていたら、暗殺か死刑の対象になっていたに違いあるまい。彼は、ジャクリーヌと娘のオーヴを連れて、ピエール・マビーユのいるサロン・ド・プロバンスに行き、アメリカに亡命していたクルト・セリグマンの手引きで、ニューヨークへ向かう決心をするが、途中マルティニク島に立ち寄る。その島も、ヴィシー政権の影響下にあり、ブルトンはいつも、秘密警察に尾行されていた。しかし、滞在中にその島の黒人詩人エメ・セザールとの親交を深めた。ニューヨークでは、最初にペギー・グッゲンハイムに請われて彼女が準備中の展覧会にデュシャンとともに協力をした。そして、講演、シュルレアリスム機関誌の発行、ラジオからの呼びかけ、そして、集会と、シュルレアリスムの活動は休みなく続くのだった。シュルレアリスムによってアメリカの美術は大きく方向転換した。20世紀の美術に最も重要な影響を与えたのはやはりシュルレアリスムなのかもしれない。
アンドレ・ブルトンの、1928年に初版が刊行され、1965年に増補改訂版が刊行された『シュルレアリスムと絵画』、および1957年に刊行された『魔術的芸術」の2冊の書は、芸術という人間の営為に新たな照射をあて、その見方(意味)に根本的な変革をもたらした革命的な著作である。アンドレ・ブルトンによって、われわれは新しい眼を獲得し、シュルレアルな世界へ通じるドアの鍵を渡された。アンドレ・ブルトンほど、人間の精神の可能性を広げ、人間の生そのものの変革を用意してくれた存在もまたとない。
また、1940年に発禁処分となった『黒いユーモア選集』は戦後になって刊行されたが、そこにもまた人間の精神の恐ろしいほど多様で並外れた顕われと運動が示されていた。この本を繙くと、バタイユの思想をも包合していると、わたしには思われるのだけれど。
1945年1月、コンバ誌の特派員としてニューヨークにきたサルトルから、パリではスターリニストたちが新聞雑誌を掌握し、とりわけアラゴンが権力を握っている情報を得て、ブルトンはフランスへ帰国する機会はまだ先のことになると思った。
8月、エリザとアメリカ西部への旅に出発し、かねてから憧れていたインディアンたちの村を訪れて、白人たちによって彼らが於かれた悲惨な状況には憤慨させられたが、それでもなお彼らが保つ誇りとその文化には深く感銘した。しかしその賞賛の念を明らかにすべく取り掛かった、多くの図版を載せる予定の旅の本も、クロード・レヴィ・ストロース、ロベール・ルベル、マックス・エルンストとの共著『北アメリカの偉大な原始美術』も計画だけで、実現できなかった。ブルトンの先駆的な眼差しは、おおむね世間の理解の範疇を越えていたので。
12月、ピエール・マヴィーユの働きかけで、ブルトンのハイチでの講演旅行が実現した。
1492年、コロンブスによって、イスパニョーラ島と名付けられたこの島が発見されてから、搾取と陰謀と虐殺の歴史が始まった。スペインの入植者たちは先ず先住民のアラワク族を絶滅させ、アフリカの黒人奴隷を連行して植民地経営をする。スペインの統治は、しかし島の西部までは及ばず、白人の犯罪者や海賊たちの潜む無法地帯となっていたが、17世紀にはフランス軍が占領して、植民地経営に乗り出す。黒人奴隷を酷使して、莫大な利益をあげた。1789年にフランス革命が起きると、1791年にその体制の混乱に乗じて黒人奴隷とムラート(白人と黒人の混血)は決起して、1804年には世界で最初の黒人による共和国が誕生した。けれども、その後もイギリス、ドイツの武力による干渉、19世紀末からはアメリカの武力、経済、政治面での干渉、そして国内の諸勢力の対立が続いていた。
ブルトンが、ハイチでおこなったいくつかの講演は、ハイチの作家や学生に熱狂を呼び起こした。『シュルレアリスムは有色人種の人々と固く結ばれている。なぜなら、シュルレアリスムはあらゆる帝国主義と白人による略奪に反対し、常に有色人種の側に立って来たからだ。』と述べ、帝国主義を批判した。翌年に起った、学生と労働者のストから始まった政変で、大統領は解任されたが、その民衆の蜂起の原因になったのが、ブルトンの講演だったという。
ブルトンはまたブウドゥーの儀式を見た。彼はマヴィーユとともに、フランス革命時にハイチに移住したメスメルの弟子の影響を推察するのだった。
ブルトンが、フランスに帰国したのは1946年5月のことだった。『廃墟までも取り壊さなければ、すべてを破壊したことにはならない。』と述べるブルトンの戦いが再開された。サルトルたちを批判して、『世界の変革、人生の変革、人間の悟性の変革という三位一体の変革以前の状態でのアンガージュマンは馬鹿げた行為だ。』と述べ、カミュを批判して、『シジフォスの岩でさえ、いつかは割れるだろう。』と述べた。『われわれの精神的、知的、身体的な能力の自由な飛躍が阻害され、抑圧される時に、悪が存在を始める』と云ったフーリエの哲学の研究を進め、アナーキストに協力し、1947年にはデュシャンとともにシュルレアリスム国際展を初めてパリで開催した。またブルトンの傍に残った盟友バンジャマン・ペレは、アラゴンやエリュアールのレジスタンス詩のなかの欺瞞に憤慨と憐憫を寄せる『詩人の不名誉』をすでに著わしていた。ブルトンはツァラのフランス共産党の顔色を窺う講演に抗議の声をあげた。フランスの植民地政策を批判するブルトンは、『自由とはベトナム語の言葉である』というシュルレアリストの共同声明を発表し、またアルジェリア戦争に抗議した。アルジェリアの民衆に銃口を向けることを拒否し、兵役を拒否する若者を擁護し、1960年9月には、モーリス・ブランショ、ジャン・シュステルらと協力して『アルジェリア戦争に於ける不服従の権利に関する宣言』を発表した。
1947年の春、サン・トゥーアンの蚤の市で、ブルトンを見かけたマンディアルグは、彼としては珍しいことに思いきって声をかけ自己紹介をした。それまでにマンディアルグはまだ数冊しか発表されていない自分の作品を、ブルトンに献呈していた。そのなかには、『黒いユーモア選集』へ目配せしつつ、共感も明らかな『黒い美術館』もふくまれていたことだろう。幸いブルトンは、マンディアルグの作品を認めたようだった。1926年オートバイに乗り始めた17歳の頃から、シュルレアリストの著作を発見して読み始めたマンディアルグは、それ以来シュルレアリスムに強い共感を抱き、シュルレアリストの何人かとは交遊があったのだが、ようやく畏敬するブルトンとの出会いの機会が得られたのだった。そしてマンディアルグは、シュルレアリストの活動に参加するようになった。時には、ブルトンからの批判も受け、またマンディアルグもブルトンとは異なる意見を述べ、議論することもあったけれども、ブルトンへの尊敬の念は終生変わらなかった。
『彼の作品には、昂揚状態のもとで書かれなかったものは一つもない。霊感によってのみ書くという彼の教義に、彼はいかに忠実であっただろうか。一つの対象を出発点として、その周囲にアンドレ・ブルトンの言葉が結晶する様に、読者はうたれるだろう。その対象というのも、ブルトンがそこから感動をひきだしたという理由のみから語られている。それゆえに読者は、ブルトンの文章の背後に、かすかに聞き取れる何か、すなわち、ある元素のたなびくさま、あるいは航跡のようなものによって、心を引き止められるのだ。』と、ブルトンの言葉と思考の生成について述べるマンディアルグはまた、『シュルレアリスムはブルトンと切り離しては、理解不可能なものだ』と断定した。彼はそう謂いながら同時に、『アンドレ・ブルトンのなかに、純粋なシュルレアリスムにおさまりきらない部分を感じている』とも告白しているのだが。よく謂われることでもあるけれど、純粋なシュルレアリスムの発露は、時にブルトンよりもシュルレアリスムを通過していった他の詩人や画家たちの作品や生き方のなかにしばしば現れる。しかし、そこにこそシュルレアリスムの大きな特質がある。何よりもブルトンはシュルレアリスムを彼個人の精神のあり方の表現に止まらず、集団の活動に広げて、相互に交流する場から、精神の多様な広がりと、精神の跳躍を見せた。その運動のさなかで、ブルトンは影響を及ぼすだけでなく、むしろ積極的に影響を受け、その都度、ブルトン自身がシュルレアリスムの新たに到達した段階を認めて来たし、時には新しいシュルレアリストを発見した。だから、ブルトンのことは、シュルレアリスムの発見者と謂うべきかもしれない。そして彼はシュルレアリスムを精神の永久革命として、常に止まることなく推進し続けた。
まもなく、マンディアルグは、レオノール・フィニーとレプリとの共生から離れることになる。1947年、戦前からの親友フィリッポ・デ・ピシスの姪ボナ・ティベルテリと出会い、1950年に結婚した。1926年生まれのボナは24歳、マンディアルグは41歳である。1961年に2人は離婚したが、1967年にもう一度結婚し直して、ふたりの間には娘のシビルが生まれた。
アンドレ・ピエールとボナのマンディアルグ夫妻は、1979年に日本を訪れた。その頃、三島由紀夫の『サド公爵夫人』をマンディアルグがフランス語に翻訳し、それをフランスで上演して絶賛を博したジャン・ルイ・バロー劇団が日本でも上演するという機会に合わせての来日で、マンディアルグの講演が、赤坂の草月ホールで催され、銀座の青木画廊ではボナの個展が開かれた。わたしもいそいそと講演に行ったのでした。講演前にはロビーでマンディアルグを見かけた。モス・グリーンのスーツを着込めして、誰からも話しかけられることなく彫像のごとく竚立しているさまが記憶に残っている。講演は主に、三島についてだった。講演後はまた、ロビーで、マンディアルグを見かけた。今度は、女の子たちから著作にサインをねだられて、気さくに、そしてはにかみながら、嬉しそうに、それに応じているのだった。実はぼくだって、マンディアルグの著書を持参していったのだったけれども、気後れしちゃって、遠くから眺めているだけでした。ボナの個展にも行って、ちょうどボナを見かけることも出来たけど、ちらちら横目で窺っただけで、長居せずに出て来た。画廊主の青木さんが面識もない一学生に、3つ折りでカラー印刷の立派なパンフレットをくれたのがとても嬉しかった。推薦文はしかも澁澤龍彦さんである。
ペヨトルの今野裕一さんが、その時の顛末を書いている。彼は、ボナに廻りの人々が思いっきり振り回されたエピソードを、楽しそうに回想している。青木画廊で錯乱した彼女をなだめるのは大変だったようだが、その夜、アンドレ自身も怒ったボナから部屋を追い出されてしまい、ホテルのロビーで夜明かしせざるを得なかったそうだ。マンディアルグは困惑しながらも、しょうがなくその事態を受け入れたのだろうが、まこと現実には無力な幻視者は、ロビーの椅子で背筋を伸ばしたままお行儀よく座っていたのじゃないかと、その光景を想像すると、むしろ微笑ましい。
マンディアルグは、メレット・オッペンハイムとも付き合っていた。1938年の夏には、マンディアルグの車で、イタリヤとスイスに行っている。『わたしが、メレットに抱いた深い愛情を遮ったものは戦争でした。』と、マンディアルグは後に述介した。
メレット・オッペンハイムは1913年ベルリンに生まれたが、その後家族とスイスに移る。
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