◎第5回 悪魔のミルク
92年からはたまたま毎年パリを訪れる機会に恵まれているが、最初の頃はルー・ド・セーヌのふたつ星ホテルを常宿にしていた。地のりがよかったのだ。その辺りを散策しながら、よく通った本屋が Un Regard Moderne だった。そこはとても小さな書店なのにさらに小さな画廊のスペースもあって、ある時には19世紀のフランス自然小説さながらの老年の醜い夫婦の性生活を描いた連作が、架かっていた。その時はおぞましく思ったけれど、それだけ印象は強烈で今になってまた観てみたいと思っている。ストゥ・ミードを発見したのもその画廊だった。世の中にはこんな奇特な画家たちがいるんだなあ、と感心していた。 Un Regard Moderneでは、ストゥ・ミードの作品集も入手した。ほとんど自費出版みたいなものだろう。そう、Un Regard Moderne には、他の本屋には売ってない若い作家たちの手作りの本や自費出版の本などもたくさんあった。四方の棚ばかりか、真ん中の島にも堆く積み上げてあり。宝探しの出来る本屋さんだった。
そのストゥ・ミードの個展が、日本で開かれるのは、とても嬉しいことだ。久しぶりに彼の原画を見ることができるんだ。ぼくは、うきうきと銀座6丁目の古いビルヂングをめざした。
そして、しばし桃色の、いや、やや暗い杏色の夢をかいま見たのだった。それは、ノスタルジックでエキゾチックな夢だった。
ノスタルジックといい、エキゾチックというのは、1950年代のアメリカのポルノ雑誌のムードが立ち籠めているから。ここに登場するのは、明らかに、現代の女の子ではない。いうなれば、LOLITA。1950年代のアメリカの少女。ナボコフが発見した、やがて堕落してしまうのが眼に見えている、しかしそれだけに中年男の夢想の中でのみ純潔を守り、穢される幻想の少女。
けれども、ストゥ・ミードのロリータは、もっと無邪気に堕落している、手に負えない娘たちだ。あそこを犬たちに舐めさせて、じぶんは、キャンデーをしゃぶるように、あれをほうばる。おしっこやうんこを、あちこちで垂れ流し、あの液を飲まされる。誘惑し、かどわかされる。そんなことが無邪気に繰り返される日々と夜々。現実にはそれは須臾の間のこと、少女が少女でいられる時間はごく短い。だからこそ、早く摘み採られなければならないかのように。そして、少女もそれを急ぐのだ。けれども、ストゥ・ミードの夢想から生まれた破廉恥な少女たちは、永遠に杏色の遊戯に耽る存在だ。
1934年、パリのピエール画廊でまだ26歳のバルテュスは、初の個展を催した。その時展示されたのは、七点で、大作『街路』、『キャシーの化粧』、『鏡のなかのアリス』、『窓』、そして最も過激な『ギターのレッスン』に、肖像画が2点であった。バルテュスの画業の全貌がほぼ明らかになっている今日でさえ、その時の作品はもっとも衝撃的で、もっともバルテュス的だ。ジャーナリズムからは黙殺されたが、『嵐が丘』の登場人物のように過激な精神の持ち主アントナン・アルトーは賞賛したし、ブルトンも注目した。アルトーは『キャシーの化粧』に就いて触れながら、『現実の人生のさなかにモデルの女性が突然スフィンクスに変身する様を想像して欲しい。それがこの絵の与えてくれる印象を捕まえる術である。」と語った。のちにバルテュスは、『ギターのレッスン』の封印を計る。と言うのも、それはまだ若い画家にとって世間の注目を浴びる必要があったからわざとスキャンダルを興すように描かれたと言い訳するのだが、もちろん、その言葉を額面どうりに受け取ってはいけないだろう。だって、そうだとしても、これこそバルテュスの代表作といっても良いほどの傑作ではないだろうか。ただ単に、スキャンダルを巻き起こすためだけに描かれたわけではないことは明らかだ。
わたしはどっかで、ストゥ・ミードがバルテュスが好きだと言っているのを聞いた気がする。ストゥ・ミードのスキャンダラスな作品は、しかし、いささかもスキャンダルを巻き起こすために描かれたものではないだろう。これは、純粋無垢な彼の夢想の産物なんだから。これほど楽しげに自分の夢想に耽溺出来る画家もいないだろう。
かってのわたしは、失ってしまった子供の頃の宝物を探す旅をしていたのだった。それはその時、シアトルでのことで、昼間、そのオモチャのコレクターだという人の電話番号を、玩具屋さんで聞いて、アポイントを取って、職場まで訪ねていったことがある。自動車ディーラーのブルーワーカーだった。その夜、わたしは郊外の辺鄙な林の中の彼のすまいである一軒家を訪れた。ドアの中に招かれて、居間に入ると、奥さんがソファーで横座りして、テレビを観ていた。われわれの来訪目的を聞いて、あきれた顔をしていた。まだ若くて奇麗な人だったのに、もう今の人生にも選んだ旦那さんにも後悔して、投げやりになっているようだった。磨けば人目を引くほどなのに、自分についても投げやりにして、何の希望もないかのようだった。われわれにお茶を出すこともせず、ずっと、ソファで横座りしながら、TVを見つづけていた、まるで自分は本当ならここにはいないはずの人間であるかのように。1950年代なら最新だったインテリアもやはり古びて安っぽかった。暗い部屋だった。パックス・アメリカーナの栄華のかけらも残っていない。過ぎ去った時代の取り残された物たちと人々。そこは、デヴィッド・リンチの映画に出て来そうな雰囲気があった。
こんなアメリカの地方の家の中で、ストゥ・ミードの描く少女たちは、早熟なお遊戯に耽っている。外の世界のことなんて、全く知らなくて、世界がどうなろうと知ったもんじゃない。世界とは、アメリカのその地方都市の自分が住んでいる街のことだけ。彼女たちにとってはTVのニュースだって、フィクションみたいなものだ。彼女たちは、ただ目前の相手(かわいい犬であろうが、優しげな素振りで近づいてくる中年のおじさんであろうが)に色情の赴くがまま、ただ気持ちの良いことに身を委ね、我を忘れて杏色のお遊戯に耽っている。
わたしは、ストゥ・ミードがどこで生まれたのか知らないけれど、ヴァニラ画廊のお姉さんが、親切に教えてくれたところでは、彼のような存在は、アメリカでは生きにくく、現在はドイツに住んでいるのだそうだ。身障者で、とても優しい人だ、そうだ。ヴァニラ画廊としては今後力を入れていきたい作家だそうだから、また彼の新作が見られることを楽しみに待とう。
(Stu Mead展「Devil's Milk 〜悪魔のミルク〜」は、2005年12月5日〜22日 ヴァニラ画廊で催された)
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