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身 体 と 場 所 │ 金 野 吉 晃


「金野さんは西島さんのパフォーマンスとかどう評価するの。」

「私は前から言ってますが、身体を素材とする表現というのはどうも受容し難いという感じがあるんですよ。それは、後で説明したいんですが西島さんの絵についてまず言いたいことがあります。それはとても共感できるということです。私も絵は、見るのも描くのも好きだから、分かる気がするんですけど、あのイリュージョン的ドローイングは本当にうまいって思いますよ。さらに、あの線だけのドローイングもいいですね。描くということの原点に近くなって。ところで、何故、身体的パフォーマンスに納得できないかというと、まず西島さんの絵が非常に完成度が高いのに、どうして他の方法まで用いなければならないか、ということです。余計なんじゃないかという疑問です。」

「あの線のやつは最近のもので、それ以外はかなり前のなんです。そして、その間に描けないという時期があったんですね。どうしてかというと自分のドローイングに何かリアリティが感じられなくなったんです。それで何か他の方法、身体で以て試してみたいという欲求があったというか。それで、色々やってきて最近、あの『線を引いて、点で止める』というやり方に落ち着いている訳で…」

「仙台に石川さんという実にユニークな画家が居まして、この人は絶対演劇派の豊島重之さんの若い頃の師匠なんですが、絵の具洗いの壷の底に溜まった絵の具かすで描いたシリーズがあるんです。これは全体がどよーっとしたモノクロな画面ですが、ぼつぼつと沢山の絵の具の点が盛り上がっている。これはランダムに描かれたのかな、それともある種の規則性を持っているのかな、と疑問を誘う訳です。で、本人に聞いてみた。どこから点を打ち始めるのかと。そしたら『画面の外から』って言うんですよ。まあ、そのシリーズのタイトルが『埒外の一点から』というんですが…。西島さんはあの線をどこから引くんだろうかというのが気になりました。つまり、最初から全体の形象が意識されてるみたいにまとまっている感じを受けたんですね。画面というのはひとつの場所ですよね。しかも切り取られた場所。そこで起こることはひとつのパフォーマンスなんですが、結局本来埒外を参照としている。けれど、逆にこの画面内が世界なんだ、この外はないんだという見せ方もできる。一種の欺きとして…そのようにして、既に見る人への効果が分かっているかのような…だから街頭で、坊主頭、白装束、上半身裸、裸足になって、巨大な鉄球を運び歩くというような西島さんのパフォーマンスは自足的にしか見えない。例えばこの展の最終日に23キロ、雨を乞いながら裸足で歩くってありますよね。これは何か象徴的なものがあるんですか。」 

「ええ、そう言われればそうなんですが、僕の行為『体現』と言ってますが、それの素材や行為はすべて前にあったことに基づいてやってるんですね。雨を乞うというのも、以前、雨を必要とした作品があったんですが、降らなくて…まあ、そういった問題の連続なんですよ。裸足で歩くというのも、特別に観念的なものがあるんではないです。」

「石川さんは自分の描き方、方法論を『パサージュ』として考えておられるようなんですが、それはやはり絵画の持つイリュージョン性を破棄する作法なんだと思います。西島さんの『体現』はリアリティを求める過程だった訳で、それはそれでイリュージョンを破棄する方法だと解していいんでしょうかね。」

「前から金野さんは身体とかそういうの嫌でしょう。そこを説明してよ。」

「まあ、私は身体に悪意を抱いている訳ではなくて、素朴すぎる身体論みたいなものや、身体がアン・ソワに与えられているから、原初的であるはずだ、といった態度を嫌悪してるんですね。それ故に身体を用いる人というのが、非常に身体に無批判だったり、逆に画一化されたものしか許容しないような。それらは確かに、無自覚な一群でしょう。もっと問題を深めている人もいます。私だって好きな舞踏家はありますけどね。でも、例えばモダン・ダンス系の人なんか、非常に自覚していても訓練された身体の動きとかイディオマティックなものが出てくるでしょう。あるいは暗黒舞踏系とか、芝居やってたとか。非常にそれが尾を引いてますよね。そして、何かそれが美しいだろうみたいな演出によく遭遇する。これを見ろ、俺がいるんだ、俺の体はこんなに動く、という饒舌なものを感じる。さっき言ったように場所を切り取っていない。今ここが世界なんだ、俺が全てなんだという、批判を許さないような態度が見える。作品と作者が距離をとれていない、というのが私の反発ですね。私が楽器をやるのはそのせいかもしれない。つまり、楽器をいじくってる限りは他のことはしていない、できない、その最中だけは、ということです。身体やら自己の幻想を、また自由を奪う拘束器具のようなものです。自由という名の拘束というか。かつて"gag is as gig"というテーマで演奏してましたけど。あるいは身体なんて演奏に奉仕すればいいんだ、という蔑視みたいなものですか。もうひとつは楽器というのは演奏衝動の原器であり、かつ受容器であるということです。D・べイリーの受け売りですけどね。」

「でも楽器があるから批判的だとかいうことにはならないでしょ。楽器ってのは、まあ普通の楽器ならそれなりに歴史の産物であり、ある種の文化や理論のなかにある形式だもの。」

「だから、それを換骨奪胎していくという作業がある訳ですよ。」

「身体ってのは、実はいつも新しいのね。歴史がないというか。身体を歴史化していくという作業が必要な訳だ。未知のもの、驚きがあるんだよね。ただ、それをそのまま提示したんでは何にもならない。」

「前に海上さんが『表情は一瞬たりとも同じではない』と書いてましたね。あれと通じる訳ですね。…まとめちゃうのは危険だけど、身体はいつも新しいが故に『根源』という幻想を指し示そうという誤りをおかしかねない、楽器は元々形式であるから批判的に扱えるんだというのもまた幻想なのだろう、ということかな。」

「自分で、新しく楽器作ってしまう人があるじゃない。ああいうのはどう思う。」

「音具とか音響彫刻ですね。ああいうのは、イディオムから離れてしまっているから、その意味で歴史性を逆照射してると思いますよ。楽音になれない音ということですね。音自体で充足してしまうような。ただ、出てくる音響の野放図さに魅せられて、根源的と思いかねないような危険はありますね。だから、結構舞踏とか映像の人が好きだったりして…そう考えると新しい楽器というのは余程理論的なものでない限り、グロッソラリアか人造言語みたいなものに過ぎないことになってしまう。理論的だったとしても生き延びるかどうか分からない。」

「じゃあ、今日やった岡崎君達のような演奏はどうかな。つまりサンプラーとか使ってる訳で、楽器といってもこれまでのとは違うよね。」

サンプリングについてはずっと考えていたんです。これは歴史の搾取、エクスプロイテーションだとか。これは非楽器ですよね。操作しながら他のことできるし(笑)、衝動の源にも受け皿にもならない。最初からあるものが順序を変えたり、分節化していくだけで、まあ、そう言ったら普通の楽器だってそう出来てるんだけど、それをあらゆる音響素材で可能にしている。今日のThis Locationのパフォーマンスは極めて、悦楽的な、愉悦的な密度の持続というべきで、演奏というよりインスタレーション的なものですね。岡崎君自身言ってたように『出来るだけ何もしないこと』を目指したんでしょ。だから清川さんの映像というかビデオ・プロジェクションも同じような性格で、だから西島さんも黙々とドローイングするということでパラタクシス(隣接)できる。」

「あれは、初めの方では描くのを時々止めて壁の映像を見てたりしたんですが、途中で、あ、これは見ていてはいけないな、と思いましたね。」

「ギャラリー内の観衆も何も期待しない。そしてその通りだった。情動も無化されている。あのような種類の持続性というのは非常に今日のテクノロジーを象徴すると思うのです。場所論、あくまで私のですが、から言えば、これは世界でもないし、彼等の名じゃないが『この場所』でもない。場所性を喪失しているという印象ですね。まあ、ノイズ系のと評される人達にはそういう傾向を感じます。ノイズには時空がないのかもしれない。一種のユートピアかな。

「デジタル化されたものということかな。」

「面白いのは、神経細胞一個一個というのはデジタルな仕掛けですよね。ある閾値以上の刺激じゃないと発火しないし、発火すれば一定の強さしかない。それが非常に多く集まって、まるで無段階のような滑らかなアナログ感覚を作っている訳でしょ。だからデジタル化が進んでいく先はアナログなものだと言ってもいい訳ですよ。テクノロジーは身体を目指すということですよ。これも一種の『身体はいつも新しい』の謂いになるかな。」

「それはいいけど、まず存在をばらばらにしてしまうよね。そういうばらばらになったものにまだ強度があるのか、ということが問題なんだよ。実際、部分になってしまったものに全体と同じ強度はない、というか別のものなんだよ。」

「『全体とは虚偽である』なんて言った人もいましたね。フラクタルですか、どの部分も全体と相似なのは。あと、モナドとかアレフなんていう概念もありますけど、一種の神秘主義ですね。海上さんの言う強度ってのは何でしょう。全体と部分の問題というのは、やはり身体であって、世界ではないですよね。」

「それは次の作品を見てもらいましょう。今度の企画には日本手話協会の人が関わっているんだけど、聾唖者間の手話というのは、日本語に翻訳され得ない別の言語になっているというんだよね。そういうのが良いか悪いかが問われているらしいけど。一応、学校教育的には、唇を読むことも教えて、その補助的なシステムとしておきたい訳じゃない。ところがそうはいかないんだよね。」

「ああ、その種の問題は聞いたことありますよ。全員聾唖者の家庭で、健聴者の子供が生まれたらコミュニケーションがとれなくなるかもしれないのでどうしようかと心配していたとか、英国では言語間の壁を超える新しい手話を用いているとか。そういう事態にある強度というのは他のスケールでは計れないものですよね、まさしく身体的な。他の基準や解析格子ではばらばらにできない。それ自体の強度としか言えない。その内部に住むしかないような…。話は変わりますけど、丁度昨日から今日にかけてジム・ダイン展と養老町の荒川修作の『養老天命反転地』を見てきました。」

「ああ、あれねぇ。どう思いました。」

「いや、まずジム・ダインですがね、古代彫刻とかを様々な角度から写真に撮り、それを基に描いていくシリーズがありまして、それは良かったですね。全くの他者によって対象化された身体の形象を描くというのは生身のモデルを画くのとは違って、より自分との対話になると思います。ダインがセミナーでやらせたことというのはモデルに一週間同じポーズをさせて、学生はそれを毎日、同じ紙に描いては消し、描いては消しの繰り返しだったそうです。当然、紙の上に跡が残る。それが大事だ、と言ったそうです。生き生きと描く訓練ではないのですね。描く、という行為を知るための訓練なのです。イリュージョンの精緻な捏造ではなく、パサージュとしてのリアリティを得るということだとおもいます。彫刻を描くというのもそうです。原作者の意図である衣装のヒダや鑿跡をなぞることによって部分が新しい身体になる。ところで、身体と場所を繋ぐ問題として記憶ということが必要だと思うんです。」

「それで荒川?」

「前に田中泯が『場所とは記憶である』と言ってるんです。それは私は割と納得できてしまってるんですが、だからどうだ、という気分でもある。『身体とは場所である』とは言えませんでしょうかね。それが肯定されるなら『身体とは記憶である』と言いたい誘惑があるんですよ。単純ですみませんが(笑)…。荒川のあれも、場所と身体を違うところから切り込んだという気がします。一気に結論というのはいけないんですが、敢えて言うとあれは巨大な具体詩ですね。平均的身体、標準的身体にとっては標準的感覚がこうあるだろう、だからそれを救済するのはこういうことだろう、っていう欺瞞があるように思えます。…歩きにくいということは、ある意味ではパサージュを阻害することですよね。いや、それによってパサージュを気付かせるのかな。歩行というのは一種のドローイングですからね。各々のやり方がある。そしてそれらは経験─記憶に結び付いています。歩行はこうあるべきだ、という観念がそれによって形成され、その延長として各自の地図、時空概念というものが出来る。画家にとっては描方と言うべきものだし、踊る人には所与以外の四肢とでも。いずれ全体性のアナロジーですね。あくまでアナロジーとしての全体。だから変形してるんです。何に対しての変形かというと、おそらく共通の記憶の債務としての言葉に対して。言葉が絶対唯一の原形、完全態で、全ての可能態はその変形なんだというのではなくてね。それだと宗教ですからね。言葉という現象が指し示すのは無性ですよ。その無性を底として差異の体系として言葉があるんだという立場ですけどね。だから記憶は身体、場所に共通の債権があり、費やされる言葉がその貨幣価値のようなものです。ここでは価値はイリュージョンというか相対的だし、パサージュは発語過程のようなものですね。そのディスコミュニケーションを狙っているようにも思える、養老天命反転地という巨大なオブジェは。」

「明日はどうするんですか。」

「ええ、休みも終わりなんで静岡で芹沢美術館と登呂遺跡みて帰ります。あとは映画でも見ます。話題の『ロスト・ワールド』か『もののけ姫』でも。…青森で三内丸山遺跡が出たでしょ。で、何か世を挙げて縄文ブームな訳ですよね。縄文というロスト・ワールドへの憧憬は一種のイデオロギーに転化しますよ。エコロジーとかと結び付いて。宮崎駿は割とずっとそういうテーマ持ってますよね。…縄文といっても一万年位あるんでしょ。ヨーロッパのケルト期みたいなものですよね。登呂はかなり新しいから、殆ど現在の我々が抱えてる問題はもう出ていますよ。以前私は、人類の歴史は技術史であり、それは疎外の発展だ、と書いたことがある。まあ、常時食料獲得への危惧や自然災害、外敵の危険に曝されている状態が疎外のない人間らしい状態なんだとか、それが自由だなんて言うのじゃないですよ。そうではなくて、おそらく照葉樹林文化以降の生産の拡大、効率化は社会体の組織の性格を非常に階層化した。この階層化と生産のカテゴライゼーションはほぼ我々の現在を決定していると思います。それが極端に進むとマヤとかアステカ、あるいはエジプトの神官達みたいに神聖文字と占星術と算術だけが『世界』の全てになってしまう。彼等は既にコンピュータ・ワールドの住人だったんですよ、性格的には。ヴァーチャルなものしか相手にできなかったんですね。それが優先してるから人身供犠なんて当然ですね。『世界』を運行させることが重要なんですから。...だから、まあ今みたいにヴァーチャリティが精緻になってくると怖いですよね。CGで合成したアイドルのポルノってのが出回ってますが、それが本当に撮影されたものよりも意味を持ってくる訳ですしね。本来のアイドルの意味に戻ってきたんじゃないですか。ポルノってのは肉体の意味でしょ。偶像の仮想的肉体って訳ですよ。仮想の方がリアリティあったりする。まあ、リアリティ論はさておきね。一方で、アニメーションという技術、これに私は浮世絵の伝統を感じますけど、一方でCG合成という西欧的デジタライゼーションの極致、どっちの映画を見ようか楽しみですね。」

(以上の仮想会話は97年8月6日、名古屋で話された内容を基に再構成したものである。)

金野吉晃:

即興演奏系プレイヤー兼オーガナイザー。批評ヴォランティア(雑誌「COS」「G-モダ〜ン」「月刊かえる」その他)。CDプロデュース(「UNFOLDING/HARRY BERTOIA」「TO WHOM IT MAY CONCERN/ E.PARKER, B.GUY, K.TAKEDA, ONNYK」)、盛岡市在住。

西島一洋:

画家、「体現」パフォーマー。97年ガレリア・フィナルテとギャラリーないとうにて企画展、愛知県師勝町在住。

海上宏美

演出家、劇団OST ORGAN主宰。絶対演劇派、名古屋市在住。

岡崎豊廣:

ディスロケーション、SHIDAにて演奏活動を継続。音楽誌「COS」「NOISE CAPTURE」編集発行。愛知県一宮市在住。


あ ら い 註 │ 岡崎豊廣

■金野吉晃氏から到着した返答(この色の文章部分です)と海上宏美氏の関連ある文章を併記させていただきました。(この色の文章部分です) Aug. 26, 1997

 

西島一洋(にしじまかずひろ)

西島さんは、「断続的におこなってきた名称不能行為を、1988年には体現と名付け活動を続けている。」当時より、体現集団アエッタとして複数のメンバーあるいは一人で、数々の行為を行ってきた。今回の企画は、名古屋のギャラリーないとうにて、97年7月26日〜8月8日「西島一洋・体現/交感儀及び絵幻想解体作業」のタイトルの下に、公演、演劇、パフォーマンス、絵、インスタレーション等のべ23名が参加し、彼と「交感」するという企画。「僕は藁半紙と鉛筆と小さな茶ぶ台3ツ用意する。そして、約2週間「交感」を依頼した23人の表現物や表現行為に対峙し、僕が絵をかく行為によって連日会場にて始終対話する。最終日は雨を欲しながら日の出とともに自宅から会場まで約23km裸足で歩き、その行為の記憶に対峙、やはり絵をかく行為によって自己問答する。」(公演案内より抜粋)厳密な意味では、今回の企画が初めての共演となる。「岡崎さん達との交感中、「別々であることのひろがり」というようなことを考えながらかいていた。」(西島一洋・記)

巨大な鉄球 

デレク・ベイリー

『ある演奏家の基礎をなしている特色、なにを演奏していてもみてとれる特色のひとつは、この器楽的衝動をいかに利用しているか、あるいはいかにそれに反撥しているか、というところにあるだろう。だからこそこの衝動をつくり出すと同時にその受容器でもある楽器というものが、演奏家が音楽をひき出してくる源泉のなかでももっとも重要な、唯一のファクターとなるのだ。』デレク・ベイリー著「インプロヴィゼーション」(竹田賢一・木幡和枝・斉藤栄一訳、工作舎刊)207頁から抜粋。

サンプラー/サンプリング

他人の音や歴史的音楽資産からのアプロプリエイション、イクスプロプリエイション?、音楽やアートにおいてサンプリングをめぐる議論は、90年頃いたるところで見られた。ヒップホップ、DJ等の音楽がより拍車をかけ、サンプラーやディジタル楽器の低価格普及は音楽全般にあたりまえに使用される現在。この問題は拡散しようとしているのかも知れない。情報全般のディジタル化が、音楽だけではなく文化全般におよび、2次利用を前提とした編集を容易にした。しばらく前よりぼくは、サンプラーを「楽器」として「演奏」している。カセット・レコーダーに代わるものとして。コンピューターもまたサンプラーである。ライヴでは音源(ぼくは他人の作品からのサンプリングはしていない)は事前に決められているので限定された素材に対して、パラメーターやパッドを操作するのは身体的行為であって、音の選択と加工のヴァリエーションは即興的に生成される。その過程は情報処理の営為に近いかもしれないが、それらの機材は、ぼくの音作業における「演奏衝動の原器でも受容器」にもなっている。大友良英君にも問い合わせる?

 

 サンプラーというのはデジタライゼーションによって拡大された概念であり、その原型はケージの「イマジナリー・ランドスケープno.1」にも見られるし、ピエール・シュッフェールのミュジク・コンクレートにも見いだせる。あるいはオプティガンという奇形的キーボードやメロトロンを考えてもいいかもしれない。しかし、今日みられるような自在な操作を可能にしたのは革命的な電子工学技術だった。そして、結局この根底的技術革新は情報資本主義という第3段階の資本主義発展を励起した。この歩みはコンピュータ、特にパソコン、マイコンの民生化と、それまでの一次関数的発展とは比べものにならない情報処理速度を可能にした。デジタル・サンプラーの出現はこれと機を一にするものであることは疑いない(むしろサンプラーもまたコンピュータであると言うべきだろう)。従って、確かに「身体的行為」によって、「即興的に生成される」「演奏衝動の原器でも受容器」でもあるサンプラーは、使用者にとって楽器であっても、既に社会的文脈からは従来の電子楽器、電気楽器とは発生を異にするものであると考えられる。その根本的差異は音響現象をデータ(一元的記号化の集積)として蓄積、通信、加工できることにあると言える。さらに言えばそれらの作業と同じレベルにおいて「演奏」ができることが違うのだ。(金野吉晃、以下同)

 

『悦楽的な、愉悦的な』

この言葉の根拠が不明です。改めて教えて欲しいです。どのような音の密度が持続すると、演奏がインスタレーションになるのでしょうか? 確か海上さんもぼくの音に対してそう形容していたようだが、その規定の使い方は不本意で不愉快。そのような演奏もしてみたいものです。(この日のライヴ演奏を収録したカセット作品「file 3:unfinished 1997」がリリースされました)

 

 悪い印象をもって書いたのではありません。私にとって『悦楽的な、愉悦的な』現象は、ある種の理想です。根拠を持って言っているのではない。その現象が生理的にもたらす多幸感があり、それ自体が一種の根拠となる。ではそれが極私的なものかというと、それこそ根拠がない。

 音の密度の持続という問題は、あらゆるジャンル、スタイルの音楽に共通するものがある。例えばフリージャズなら「マシン・ガン」とか、クラシックなら「法悦の詩」(スクリャービン)とか… 人の耳で個々の要素を判別可能な閾値を越えるかどうかというレベル、またはラ・モンテ・ヤング、パレスタインのような特定の音を聴覚に埋め込んでしまうかのごとき作業。一定レベルのノイズは聞こえなくなる、背景化してしまう。しかし、そのことによって作用する。

 

『出来るだけ何もしないこと』

確かに数人に事前にこのように話していた。この意図は、この場では3者の表現行為(絵・音・映像という)が同時に進行するため、完結した自己表現を積極的にはしないというもの。あの空間で、音を支配的に配置する事は簡単です。また事前に綿密に打ち合わせ、全体を統一的なイメージ収束をすることも安易と思われ避けています。(ということは、何も考えていないに等しい? 批評対象に値しない?) 可能な限り平静な意識を保つことのみを個人的に決めていたわけです。有意義な「パラタクシス」ができたかは不明ですが。

 

 「あの空間で、音を支配的に配置する事は簡単です。」という発言を前にあるベーシストから聴いたことがある。その発言もまた、別の企画で、全く参加者が別個にパラタクシスしているものだった。ディスロケーションでは岡崎氏はベーシストに匹敵するのだろうか、と思ってしまった。自信に溢れた発言にきこえ(少なくともそのベーシストは自信を持って言った)、いいことだと思います。

 

This Location

ディスロケーションという即興演奏バンドの縮小形態の名称として使っている。この日は岡崎豊廣(音)と清川桂史(ヴィデオ映像)を指しているので、この日(8月6日)の「演奏」は岡崎一人である。念のため。(なお厳密には、会場には展示として、有馬かおる(絵)水野シゲユキ(インスタレーション)草壁史郎(平面×立体)。そして西島のドローイング他の展示があった。)

 

下段に引用させてもらった海上宏美氏の文章は、97年4月27日〜5月10日に催された西島企画の全日にわたるリポート文(発表準備中)からの引用です。

 

 岡崎の活動の中心はディスロケーションというノイズバンドである。清川もそのメンバーである。岡崎はサンプリングマシーンを使い、事前にサンプルした音を現場でカットアップする。それは音を構成したり組み立てるのではなく、むしろ散乱させる、というものに近い。だからこそノイズバンドなのである。ディスロケーションのそうした音楽の在り方に私はいつも共感を持ってきた。即興というコンセプトや現代音楽というある種の前衛へ傾くこともなく、またポピュラーな音楽という後衛へ傾くこともない。ただただノイズバンドというロック的在り方に留まり続けている。ディスロケーションはバンドである、という単純な規定。だが、その内実は単純ではない。清川はビデオを操作し、その他のメンバーもギタリストとサックス奏者という構成である。にもかかわらずノイズバンドという領域に留まり続けていることのもたらす自在さがあるように私には思われるのだ。それは岡崎と清川の二人だけであっても変わらない。

 清川は、以前はパフォーマンスといえる行為を行うこともあったのだが、現在はビデオの投影が主であるようだ。映像は身体の部位を映したと見えることが少なくない。清川自身がパフォーマンスを行うことからの移行を考え合わせてみると、断片化された身体へと関心が移行しているのかもしれない。投影は複数のビデオプロジェクターで行われるので、用意されたいくつかの映像を現場で組み合わせている。岡崎のようなサンプリングによるカットアップという形態にはならないが、デジタル映像機器が普及すれば、清川の投影方法もより拡散する方向になるのかもしれない。

 私はディスロケーションの音楽の在り方に共感を持ってきたと書いたが、こうしたディスロケーションの音楽の在り方の先に何があるのかはわからない。

海上宏美[行為の現場から/行為∞思考]に隣接する断片として(部分)

 

『観衆も何も期待しない』

この言葉の根拠も不明です。実際そうであったとしても、演奏することに大きな影響はないが、これでは3人が全く世間から冷たく扱われているように聞こえるではないですか。

 

 期待されたいですか、冷たいのはいやですか。そりゃあ、人情としてそうだと私もおもう。ただ、期待という心情は何もポジティヴな効果をもたらすとは限らない。私は期待しないで何かに出会った時の方が嬉しい。あるいはまた、心地よい陶酔感や、傾眠は期待される種類のものだろうか。影響はない、とおっしゃるように私は聴衆に期待しないし、されてもしょうがない、と考える者です。なぜなら聴衆は代理的他者であってほしいからです。まあ、この論議は長くなりますので、リクエストあらば書きます。

 

『場所性を喪失している』

この言葉の意図と根拠が不明です。

『ノイズには時空がないのかもしれない。一種のユートピアかな。』

この言葉の意図と根拠が不明です。

 

 場所-トポスの不在が「無可有の里」=ユートピア(昔いたコントの二人ではない、t・ラングレンのバンドでもない)ですね。もし、ノイズが方向性や論理的展開を持っているならその分だけノイズ性は低いと思います。あるいはノイズに是非や善悪があるというのも考えられない。つまり、ノイズは背景化されており、その上において我々はものを言う、ということだと思う。オルト・ライヴで昔、d・モスのレビューをしたときそういうことを書いた。ノイズが特殊な事態なのではなく、それが基盤であり、音楽現象こそ特殊なのだと思う。ここで一つ可能な言い方があるとすれば「傾斜した(場としての)ノイズ」でしょうか。我々は普遍的なこと・ものには出会えない。ちょっとカント、ハイデッガーはいってます。なんと、さいでっかー。

 

ノイズ系

「ノイズ・ミュージック系」と言ってもらえるとありがたい。それとも「名古屋金鯱音響派」がいいかな?。 

清川桂史

準備された映像素材とカメラ映像をリアルタイムでイフェクト処理したものを、ヴィデオ・プロジェクターを2〜3台使って、西島、岡崎の行為場所を含めた空間に投射していた。本人の後日意見では、「この日の映像は、音への同期(感覚的な意味で)がうまくいってなかった。」

 

 感覚的であれ、同期しようと思うことは彼の身体的パフォーマーの性格が出ていますね。「カルチョ」(大垣)には行ったかな。隣がホテルとカラオケってのはいいロケーション。うまいイタメシ食って、ちょっと歌って、それで… というプロセスを俺は許さないぞぉーっ!(except myself)

 

ドローイング(縮小画像だけになります)

 

海上氏よりの訂正加筆

 手話翻訳者が関わっているのは、オスト・オルガンの次の作品ではなく、七ツ寺共同スタジオ25周年企画の一作品でした。また、その演出は手話協会ではなく、手話学会の方だそうです。詳しくは七ツ寺共同スタジオ25周年企画のパンフレット(未刊)または七ツ寺共同スタジオ通信を参照のこと。

 

養老天命反転地

1995年に岐阜県養老公園に開設されたこの公園では、「あなたの通常の見方を変えなさい」と要求する 設計者は荒川修作。「色々な通路、坂、日常生活用品、そして日本列島を描いたもの等々をバランスよく配置し、ときには意識的に配置のバランスを崩すことによって、訪問者に通常の環境を変える機会を提供する」、とされている。ぼくが訪れたときには、「天命うどん」「反転うどん」が隣接する店舗で売られていた。うちの次女は日本地図の上を何度もすべって遊び新品のパンツに穴をあけていた。開設当初は、けが人続出で地元新聞読者を楽しませた。